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2025 .07.05
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今回は[シャーロック・ホームズ]シリーズの生みの親である
[アーサー・コナン・ドイル]について調べてみたいと思います。
 

『アーサー・コナン・ドイル(Arthur Conan Doyle)』
本名  『アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル』
(Arthur Ignatius Conan Doyle) 
生年月日 1859年5月22日 - 1930年7月7日(満71歳没)
出身地 スコットランド・エディンバラ
職業 小説家 眼科医

『スコットランド・エディンバラ』 


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1859年(誕生) スコットランドの首都エディンバラで
[チャールズ・アルタモント・ドイル]と[メアリー・フォーリー]
との間に生まれる。
1864年(5歳)

父[チャールズ]がアルコール依存症のため家族が離散してしまう。

1867年(6歳) 家族と一緒に再び暮らし始めるが、非常に貧しい暮らしになる。
1869年(9歳) 裕福な叔父の援助によりイエズス会(ローマ・カトリック)系の
学校に通い勉学に励む。
1875年(16歳)

オーストリア・フェルトキルヒにあるイエズス会のステラ学校に通う。



『エディンバラ大学』 


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1583年創立で長い歴史を有する大学
英国で6番目、スコットランドで4番目に古い大学。
英国屈指の難関大学の一つで卒業生には
政治家・小説家・ノーベル賞の受賞者など著名人が多い。
 

『エディンバラ大学、主な卒業生』 

 

アレクサンダー・グラハム・ベル 

電話の発明者 

チャールズ・ダーウィン 

進化論 

ジェームス・マシュー・バリー 

ピーターパンの作者 

ディヴィッド・ブリュースター 

万華鏡の発明者 

ピーター・ドハーティー 

ノーベル生理学・医学賞 

チャールズ・バークラ 

ノーベル物理学賞 

マックス・ボルン 

ノーベル物理学賞 

イゴール・タム 

ノーベル物理学賞 

マックス・ボルン 

ノーベル物理学賞 

アレクサンダー・トッド 

ノーベル化学賞 

 



1876年(17歳)

エディンバラ大学の医学部に通い始める。
イングランドのアストン・シェフィールド・シュロップシャーなどで
外科医師の助手として研修(?)として働く。

エディンバラ大学在学中に短編小説を書き始める。
読書も熱心にしていて特に
[エドガー・アラン・ポー]や[エミール・ガボリオ]
を好んで読んでいた。

1879年(20歳) 最初の公開作品になる冒険小説「ササッサ谷の秘密」が
チェンバースジャーナル」に掲載される。

父親の[チャールズ]のアルコール依存症が悪化し精神病院に
入院したため大学在学中に北氷洋行きの捕鯨船に
見習い船医として数ヶ月働きにで、家族の生活を支える。
1881年(22歳)  父親の入院などのアクシデントの為に同期の友人達より
数ヶ月遅れたが無事に大学を卒業する。

卒業後は西アフリカへの貨物船で船医として働く。 



次回[アーサー・コナン・ドイル・その2]へ続く


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今回は[エドガー・アラン・ポーその2]の続きです。
 

『エドガー・文章と共に』

ウェスト・ポイント陸軍士官学校を退学後、ボルティモア移り住み
クレム叔母の家に居候をしながら生活し、文章で身を立てるべく
本格的な活動を始める。


主に雑誌の編集や、雑誌への小説の掲載をしていた。
雑誌の編集の仕事では、才能を発揮し発行数を増やしている。


しかし功績に見合う報酬は貰っていないらしく
職を転々とすることになる。


執筆面でも雑誌に投稿し最優秀作に選ばれ賞金を得たりしている。


だが基本的には貧困生活をしている。
経歴だけみると生活が安定してもおかしくないと思うのですが・・・。 



『主な出来事』
1831年(22歳)
1831年8月

実兄のウィリアム=ヘンリー 結核で死去
 
1833年
(24歳)

1833年9月

郡裁判所から結婚許可を受け13歳の少女
ヴァージニアと結婚する。
 

1836年
(27歳)

1836年5月

仕事が起動に乗っり、ヴァージニアと結婚式を
挙げたる。
 
1842年
(33歳)

1842年1月

妻ヴァージニアが自宅で喀血する。
結核の兆候だった。
 
1846年
(37歳)

ニューヨーク・ブロンクス区にある木造家屋に転居。

1847年
(38歳)
 

1847年1月

妻ヴァージニア死去
 
1849年
(40歳)

エドガーは仕事でリッチモンドへ、ヴァージニア大学の学生時代の恋人だった
エルマイラ・ロイスターと再会する。彼女は未亡人になっていて
度重なる求婚の末婚約する。
 


『エドガーの死』
1849年
(40歳)

1849年9月27日

エドガーは新たな本の出版の準備の為に
船でニューヨークへ向かう。
しかしボルティモアに到着すると、数日滞在することになる。


この時期はちょうどメリーランド州議会選挙のまっただ中で、
10月3日が投票日になっていた。

エドガーはその10月3日にワシントン・カレッジ病院に担ぎ込き
こまれる事になる。


その日、酒場で異常な泥酔状態に陥っていたところを、
友人に発見されて
そのまま病院へ、との流れになった。


10月中にエルマイラ・ロイスターとの結婚式を控えている中
エドガーは4日間の危篤状態が続き1849年10月7日早朝5時に
帰らぬ人になる。


後にエドガーの遺体はメリーランド州ボルティモアの墓地に
埋葬される。



             『エドガーの死因』

時代が時代なので、エドガーの死亡証明書を含め、ポーの診断書は
存在していない。

新聞などでの死因は「脳溢血」や「脳炎」と報道されていた。

発見された時は、泥酔状態でしかも本人の服ではなく
他人の服を着ていたみたいなのです。


そしてちょうどこの時期は選挙が行われていた。


この時代は有権者の身元確認が不十分だった為、不正が良く
行われていた。

その一つが、票を稼ぐために、ターゲット(旅行者や乞食など)を見つけ
無理やり酒を飲まし泥酔させて投票所に連れて行き、投票させる。
というものが流行っていたらしいのです。

エドガーもこれの犠牲になってしまった説が有力です。

もちろん「怖い人」達が行っていたと思われるので逆らえません。 



今回の[エドガー・アラン・ポー]は名前だけ知っていて
殆どの事が知らないことでした。
 

どうも[エドガー]は「アメリカ合衆国において文筆だけで身を立てようとした
最初の著名な作家」っとされてます。
 

しかし[エドガー]は文筆だけで生計がたっていたとはいえませんねが
文章に携わって生きていた」とは言えますね。
 

[エドガー]の人生を軽くですが調べてた感想ですが


文章以外、ダメ人間!!」でした。


学校関係も、「退学」の二文字はあったのですが「卒業」の二文字が
見つからなかったですし・・・。
お酒に関してはわざわざ書かなくても良いぐらいです・・・。


職に関してもコロコロと変えてますし、でも言えるのが
色々な人に愛されている人物なのは分かりました。


そうでもしないと仕事の紹介など誰もしてくれませんし
自己出版などの時も「カンパ」などで補う時もありました。


しかし個人的に[エドガー・アラン・ポー]は本当に何も知らなかったです。


情けないことに日本の小説・推理作家である[江戸川 乱歩]と区別が
殆どついてませんでした。


代表作を調べても読んだ事のある物も知っている物も無かったのです。
[江戸川 乱歩]は「怪人二十面相シリーズ」位でしたが・・・。


今度[エドガー・アラン・ポー関係]の映画などは見てみようと思います。




今回は[エドガー・アラン・ポー]の続きです。
 

『エドガー・A・ペリー・軍隊に入隊』
1827年
(18歳)
 


1827年の5月

今度は「エドガー・A・ペリー」と名乗り、年齢も22歳と偽り
アメリカ合衆国陸軍に入隊し、ボストン港内の砦に赴任する。
この時期に自分の詩集を出版するため、印刷業者などを探す。 

1827年
(18歳)
 

1827年の7月

エドガー初めての詩集『タマレーン、その他の詩集』を出版 
1827年
(18歳)
 

1827年の11月

エドガーはサウスカロライナ州のムールリ砦に移動し
大砲の弾を準備する特別技術兵に昇進する。 
1828年
(19歳)
 

エドガーはヴァージニア州にあるモンロー要塞に移り、順調に
昇進していき下仕官での最高階級の特務曹長に昇進する。

契約での勤務帰還は5年だったが、エドガーは早期除隊
するために指揮官のハワード中尉に相談する。

今までの経歴、本名などを明かしての相談の結果
ハワードは義理の父親であるアランに連絡を取るよう指示する。
しかし、家出同然で出てきて音信不通を数年していたため
アランからの返事は無かった。 

1829年
(20歳)
 


1829年2月28日

連絡の無かったアランから電報が届く。
内容は義母であるフランセスの様態が悪化したとの事だった。

電報を受け取ってから直ぐに、リッチモンドに帰ったのだが
時はすでに遅く、フランセスは亡くなっていた。

しかし直ぐに駆けつけようというエドガーの姿勢をみた
アランはエドガーを少し許し、除隊を許す。

そしてエドガーの希望のウェスト・ポイント陸軍士官学校に
入学することを許可する。 


 

『エドガー・学生に戻る』
1829年
(20歳)
 


1829年の4月

エドガーは軍隊を無事に除隊した。
そしてウェスト・ポイント陸軍士官学校に入学に関しては
今年度の定員に達していたので入学は翌年の7月まで
待つ事になった。

和解したとはいえアラン家に居座るのも気が引けるので
兄のヘンリーが引き取られた父方の実家を訪れる事にした。

訪ねてみたら非常に貧しい生活をしていたので、滞在なんて
頼める状態ではなかったので諦め、ボルティモアに安いアパートを探して住む事にした。 

1829年
(20歳)
 


1829年12月

ハッチ・アンド・ダニング社から第二詩集
アル・アーラーフ、タマレーン、および小詩集』を出版する。

ボルティモアに移り住んだ頃から出版の計画は立てていたが
金銭的に企画倒れになっていた。

その後、長詩「アル・アーラーフ」が色々な雑誌に掲載されて
世間の注目を集めて、今回の出版になった。 

1830年
(21歳)
 


1830年7月

無事にエドガーはウェスト・ポイント陸軍士官学校に
入学する事ができる。

しかしエドガーが想像していた学生生活ではなかった。
(詩も小説などのエドガーが楽しみにしている事が禁止) 

1831年
(22歳)
 

1831年1月

エドガーは意図的に問題を起こし、放校処分になる。

以前よりアランとの関係が悪化し勘当を言い渡せれていたが
最後にアランには退学する事を手紙で伝えた後に問題を
起こした。 
1831年
(22歳)


1831年2月

ウェスト・ポイント陸軍士官学校を退学し
ニューヨークにある格安のホテルに滞在した。
この期間に第三詩集の出版の計画に入る。
金銭的には士官学校の生徒達のカンパで行った。

残念ながらこの第三詩集はお世辞にも好評とはいえない
評価だった。 



次回[エドガー・アラン・ポー3]へ続く



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