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『ヴラド3世(Vlad III) 』 |
1431年 - 1476年 |
通称「ドラキュラ公・串刺し公」
アイルランド人の小説家[ブラム・ストーカー(Bram Stoker)]の作品
「ドラキュラ」に登場する[吸血鬼・ドラキュラ伯爵]のモデル
ルーマニア独立のために戦った英雄
『ヴラド3世の人生』 | |
1431年 (1430年?) |
トランシルヴァニア地方のシギショアラで 『ヴラド2世』の息子(次男)として生まれる。 |
1436年 |
『ヴラド2世』がワラキア公になる オスマン帝国と敵対する。 |
1444年 | オスマン帝国との戦闘が激化 |
『ヴァルナの戦い』 | |
ハンガリー王国 ポーランド王国 ワラキア公国 リトアニア大公国 ローマ教皇連合軍 クロアチア王国 セルビア王国 ボヘミア王国 ボスニア王国 神聖ローマ帝国 |
VS オスマン帝国 |
[オスマン帝国]に敗退
[ワラキア]敗退につき[オスマン帝国]の支配下に入る |
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1447年 |
[ヴラド2世]と兄[ミルチャ]が暗○される (トランシルヴァニア公でハンガリーの有力者 [フニャディ・ヤーノシュ]が暗○を指示という説がある)
[フニャディ・ヤーノシュ]はダネスティ家の |
1451年 |
亡命先の「モルダヴィア」の[アレクサンドル公]が病死 [ヴラド3世]は「トランシルヴァニア」に渡り 以前対立していた[フニャディ・ヤーノシュ]の許へと |
1456年 |
[ヴラディスラフ]はハンガリーの意見を聞かずに 独立しようとしていた。 それを阻止するために[ヴラド3世]を支援し ワラキア公の地位に就かせる。 |
1459年 |
[ヴラド3世]は「ワラキア領内」の貴族達を掌握し 直属の直轄軍を編成し、権力を強める。 その頃から「オスマン帝国」への貢納を拒否する。
「オスマン帝国」側も使者を派遣し貢納を要求するが |
1462年 |
ついに[ヴラド3世]は[メフメト2世]の首をとるべく 夜襲をかける。 激しい戦いの末に[メフメト2世]の首には 手が届かなかったが 「オスマン帝国」に多大の損害をあたえる。
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1462年 (同年) |
「オスマン帝国」は[ヴラド3世]の 弟[ラドゥ(美男公)]を支援する。 [ヴラド3世]に恨みを持つ貴族達を集めて 襲撃させて追い出す事に成功する。
[ヴラド3世]はトランシルヴァニアに落ち延びるが、 |
1474年 |
[マーチャーシュ1世]の妹と結婚し 正教会からカトリックに改宗し、 12年間の幽閉から釈放される。 (ワラキアの民は正教会中心だったので 人心を失う事になる) |
1476年 (1477年?) |
三度目のワラキア公の地位に就く。 後に「オスマン帝国」との戦闘で戦死する。 (同国の貴族による暗○説もある)
戦死後、[ヴラド3世]の首は塩漬けにされて |
『ヴラド3世の通称』
『串刺し』
[ヴラド3世]が好んで使った処○法が、「串刺し」です。
「串刺し」の刑は、平民(重罪人)にのみ使われていたのです。
この時代の身分の高い(貴族など)が処刑される時は「斬首」が
基本だったのです。
そこで[ヴラド3世]は自分に敵に対しては貴族でも平民でも
関係なく「串刺し」の刑にしたのです。
この行動により、敵対心を折る事ができます。
[メフメト2世]が首都に攻め入ってきた時にも、戦意を奪う程の
「串刺し」刑の山を見せ付けています。
『ドラキュラ』
父親の[ヴラド2世]の通称が「ドラクル(竜公)」だったのです。
竜騎士団に属していたので「ドラクル」と呼ばれていました。
そこで「ドラクルの息子だからドラクレア」で英語読みの
「ドラキュラ」になった。
その他に[ヴラド2世]の通称の「ドラクル(竜)」は
「竜=悪魔」と同一視されていた事と「串刺し」などの残酷な
イメージから「悪魔公」とも呼ばれるようになった。
『ヴラド3世の残酷な伝承』
近隣の貴族を酒宴に招待し、皆殺しに。
「オスマン帝国」の使者を「串刺し」にした。
「オスマン帝国」の使者が帽子を帽子を脱ごうと
しなかったので 帽子ごと使者の頭に釘を打ち付ける。
疫病流行時に、病人たちを一箇所に集め、焼き殺す。
オスマン帝国軍を見せしめに、「串刺し」にした○体を
大量に晒し物にする。
その他にも幽閉時には
「無差別に人を殺して、血肉を食した!!」
「田畑を燃やして農民を苦しめた!!」
とかもあります。
『ヴラド3世は英雄!?』
時代的に「ワラキア」は「オスマン帝国」や他の隣国の
脅威に怯えていました。
その為に、権力を得るために近隣の貴族を皆○しにしたり
「オスマン帝国」からの使者を殺したりし、毅然なる態度を
示したのでしょう。
見せしめの「串刺し」にした死体を晒すというのも
「ワラキアに手を出したらただではすまさない!!」
と言う意味にも感じられるのです。
病人達を焼き殺した時も、「疫病の流行」を止める為です。
「オスマン帝国」の脅威に怯え続けてきた
「ワラキア」の民にとっては
「英雄」
と呼んでもおかしくないと思われます。
今回も知らないことばかりでした。
知っていたのは小説「ドラキュラ」のモデルで
「串刺し公」と呼ばれた残酷な君主!!ぐらいでした。
「オスマン帝国」と戦っていたり
領土を捨てて逃げたりと、思いのほか忙しい人生みたいでした。
ただの残酷な君主だと思っていたので以外でした。
そういえば小説や映画で「ドラキュラ」を見た事がないので
見てみたいと思います。