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2025 .07.05
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『ヴラド3世(Vlad III) 』
1431年 - 1476年


通称「ドラキュラ公・串刺し公
アイルランド人の小説家[ブラム・ストーカー(Bram Stoker)]の作品
ドラキュラ」に登場する[吸血鬼・ドラキュラ伯爵]のモデル


ルーマニア独立のために戦った英雄
 

『ヴラド3世の人生』
1431年
(1430年?)
トランシルヴァニア地方のシギショアラで
『ヴラド2世』の息子(次男)として生まれる。
1436年 『ヴラド2世』がワラキア公になる
オスマン帝国と敵対する。
1444年 オスマン帝国との戦闘が激化
『ヴァルナの戦い』
ハンガリー王国
ポーランド王国
ワラキア公国
リトアニア大公国
ローマ教皇連合軍 
クロアチア王国
セルビア王国
ボヘミア王国
ボスニア王国
神聖ローマ帝国
  VS オスマン帝国
 
[オスマン帝国]に敗退

[ワラキア]敗退につき[オスマン帝国]の支配下に入る
[ヴラド3世]と弟の[ラドゥ(美男公)]オスマン帝国の人質に

1447年 [ヴラド2世]と兄[ミルチャ]が暗○される
(トランシルヴァニア公でハンガリーの有力者
[フニャディ・ヤーノシュ]が暗○を指示という説がある) 

[フニャディ・ヤーノシュ]はダネスティ家の
[ヴラディスラフ(ヴラド3世の又従兄弟)]を支持し
これをワラキア公とし支配する。

しかし[ヴラド3世]はオスマン帝国の支援で対抗し、
ワラキア公の地位に
(実質はワラキアをオスマン帝国が支配)

それを快く思わない[フニャディ・ヤーノシュ]
によって敗退する。
たった2ヶ月で「モルダヴィア」へ亡命する。

1451年 亡命先の「モルダヴィア」の[アレクサンドル公]が病死       
[ヴラド3世]は「トランシルヴァニア」に渡り
以前対立していた[フニャディ・ヤーノシュ]の許へと
1456年 [ヴラディスラフ]はハンガリーの意見を聞かずに
独立しようとしていた。

それを阻止するために[ヴラド3世]を支援し
ワラキア公の地位に就かせる。 
1459年 [ヴラド3世]は「ワラキア領内」の貴族達を掌握し
直属の直轄軍を編成し、権力を強める。

その頃から「オスマン帝国」への貢納を拒否する。

「オスマン帝国」側も使者を派遣し貢納を要求するが
使者を生きたまま串刺し刑する。
(弁明としては、使者に無礼があったと)  
  
「オスマン帝国」の王[メフメト2世]は大軍を率いて
幾度となくの制裁に向かうが

その度に[ヴラド3世]はゲリラ戦と焦土作戦を
もちいて撃退する。

1462年 ついに[ヴラド3世]は[メフメト2世]の首をとるべく
夜襲をかける。

激しい戦いの末に[メフメト2世]の首には
手が届かなかったが
「オスマン帝国」に多大の損害をあたえる。


後に「ワラキア」の首都「トゥルゴヴィシュテ」に
入城したさいに
[メフメト2世]が見たのは夥しい数の串刺しにされた
オスマン帝国兵の○体でした。

これは戦意を奪い撤退させるだけの
効果が十分にあった。

1462年
(同年)
「オスマン帝国」は[ヴラド3世]の
弟[ラドゥ(美男公)]を支援する。

 [ヴラド3世]に恨みを持つ貴族達を集めて
襲撃させて追い出す事に成功する。

[ヴラド3世]はトランシルヴァニアに落ち延びるが、

ハンガリーの王 [マーチャーシュ1世
(フニャディ・ヤーノシュの子)]に
オスマン帝国に協力した事により捕られ幽閉される。
(この頃に妻が塔から身を投げて自○する)

1474年 [マーチャーシュ1世]の妹と結婚し
正教会からカトリックに改宗し、
12年間の幽閉から釈放される。

(ワラキアの民は正教会中心だったので
人心を失う事になる)

 
1476年
(1477年?)
三度目のワラキア公の地位に就く。       
後に「オスマン帝国」との戦闘で戦死する。
(同国の貴族による暗○説もある)


戦死後、[ヴラド3世]の首は塩漬けにされて
「コンスタンティノープル」で晒し物にされた。
遺体は「スナゴヴ」の修道院に埋葬されました。


 

ヴラド3世の通称

 

串刺し


[ヴラド3世]が好んで使った処○法が、「串刺し」です。
「串刺し」の刑は、平民(重罪人)にのみ使われていたのです。
この時代の身分の高い(貴族など)が処刑される時は「斬首」が
基本だったのです。
 

そこで[ヴラド3世]は自分に敵に対しては貴族でも平民でも
関係なく「串刺し」の刑にしたのです。


この行動により、敵対心を折る事ができます。
[メフメト2世]が首都に攻め入ってきた時にも、戦意を奪う程の
「串刺し」刑の山を見せ付けています。


 

ドラキュラ


父親の[ヴラド2世]の通称が「ドラクル(竜公)」だったのです。
竜騎士団に属していたので「ドラクル」と呼ばれていました。
そこで「ドラクルの息子だからドラクレア」で英語読みの
「ドラキュラ」になった。


その他に[ヴラド2世]の通称の「ドラクル(竜)」は
竜=悪魔」と同一視されていた事と「串刺し」などの残酷な
イメージから「悪魔公」とも呼ばれるようになった。

 

ヴラド3世の残酷な伝承



近隣の貴族を酒宴に招待し、皆殺しに。


「オスマン帝国」の使者を「串刺し」にした。


「オスマン帝国」の使者が帽子を帽子を脱ごうと
しなかったので 帽子ごと使者の頭に釘を打ち付ける。 


疫病流行時に、病人たちを一箇所に集め、焼き殺す。


オスマン帝国軍を見せしめに、「串刺し」にした○体を
大量に晒し物にする。


その他にも幽閉時には


無差別に人を殺して、血肉を食した!!


田畑を燃やして農民を苦しめた!!


とかもあります。

 

 

ヴラド3世は英雄!?



時代的に「ワラキア」は「オスマン帝国」や他の隣国の
脅威に怯えていました。

その為に、権力を得るために近隣の貴族を皆○しにしたり
「オスマン帝国」からの使者を殺したりし、毅然なる態度を
示したのでしょう。


見せしめの「串刺し」にした死体を晒すというのも

 

ワラキアに手を出したらただではすまさない!!


と言う意味にも感じられるのです。
病人達を焼き殺した時も、「疫病の流行」を止める為です。


「オスマン帝国」の脅威に怯え続けてきた
「ワラキア」の民にとっては

 

英雄


と呼んでもおかしくないと思われます。

 


今回も知らないことばかりでした。
知っていたのは小説「ドラキュラ」のモデルで
「串刺し公」と呼ばれた残酷な君主!!ぐらいでした。


「オスマン帝国」と戦っていたり
領土を捨てて逃げたりと、思いのほか忙しい人生みたいでした。
ただの残酷な君主だと思っていたので以外でした。


そういえば小説や映画で「ドラキュラ」を見た事がないので
見てみたいと思います。





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