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前回からの続きです。
『主な登場物』
『エリオット・ネス(Eliot Ness)』 (1903年4月19日 - 1957年5月16日) |
財務長官[アンドリュー・メロン]の厳命で[アル・カポネ]を摘○するため ○類取締局でチーム「アンタッチャブル(手出し出来ない奴ら)」を組織し [アル・カポネ]を追い詰める。 その後も一味の闇○事業者の○発を続け、最終的に69人を捕えた。 |
『ジャック・"マシンガン"・マクガーン(Jack McGurn)』 (1905年 - 1936年2月13日) |
マシンガンで撃たれても一命を取り留めたことから
容姿端麗の希代のプレイボーイで、金髪美女にはとくに目が無かった。 |
『アル・カポネ 暗黒街の頂点篇』 | |
1925年 |
[ジョニー・トーリオ]引退後、縄張りを譲らり受けるて26歳にして組織のトップに立つ。
26歳で組織のトップに立った[アル・カポネ]の行動が |
1927年 | 買収の結果、実質的に市長ともいえる存在にまでなっていた。 |
1927年 (1928年?) 7月1日 |
部下の[ジャック・マクガーン]に命令して [フランキー・イェール]を○害する。 組織の地位や取引での不正(疑われた)などが理由です。 (彼の葬儀の参列者数は15万人を超えたと言われています。) 実行○は [ジョン・スカリーゼ] [アルバート・アンセルミ] [フレッド・バーグ] |
1928年 |
部下の[ジャック・マクガーン]がラッシュ・ストリートのホテルで [ジョージ・モラン]の手下の[グーゼンバーグ兄弟]に マシンガンで襲われる 丁度、この頃[アル・カポネ]も二度ほど狙われる。 |
1929年 2月14日 |
[ジャック・マクガーン]の進言(復○でもある)により、 以前より対立している[ジョージ・モラン]と 決着をつけるべく暗○を命令する。
通称「聖バレンタインデーの虐○」
そしてこの虐○の罪では一人も○捕されなかった。 |
1929年 5月 |
アトランティック・シティで行われた会合の後、 拳○の不法所持で自作自演で逮○される。
「聖バレンタインデーの虐○」
事件で世間の非難が集中していたので、 ○捕される事で少し緩和させる為です。 (目立ち過ぎていて他のギ○ングなどに 狙われていた説もあります) 刑期は1929年5月17日~1930年3月17日 の10ヶ月間です。 (刑務所内のでの待遇はもちろんVIP待遇) |
1930年 |
本格的な○捕を逃れる為に、寄付(食事の配給)などを行った。 (実際は地元の業者に寄付させただけ) |
1930年 (年末?) |
逮○を逃れるため、[アル・カポネ]はシカゴの サウス・ステート・ストリート935番地の店で 貧しい人たちに1日に3度、無料給食を提供した。 このことは新聞などでも報じられ、 国民が感心した出来事だった。 無料給食を運営するのは1ヶ月に1万ドル経費が掛かる、 とアルは言っていた。 しかし、実際には経費のほとんどは [アル・カポネ]自身が負担したのではなく、 地元のパン屋、生肉業者、コーヒー豆屋などに 寄付させたものだったという。 |
1931年 10月7日 |
[アル・カポネ]脱○裁判が始まる。
[エリオット・ネス]率いる[アンタッチャブル]による 「11年の懲○・罰金8万ドルの有○」が判決を受ける。
|
1931年 10月24日 |
クック郡○務所に収監される。 この刑務所でも職員達を買収してVIP待遇の生活を送る。 |
1932年 5月2日 |
最後の望みだった再審請求は最高裁から退けらる。 |
1932年 5月3日 |
アトランタ○務所へ電車で出発する。
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1932年 8月22日 |
アルカトラズ刑務所に囚○85号として収監される。 風呂場の掃除係として働いた。 |
1936年 |
囚○によるストライキが起きるが、 [アル・カポネ]は参加しなかった。 そのため、他の囚○達に「家族を○す」などの 脅しを受ける。 独房で震えながら毛布を頭からかぶり 泣いてたが原因は神経梅毒の影響だった。 |
1936年 6月23日 |
[ジミー・ルーカス]という囚○に背中から刃○で刺される。 理由は 「ストライキに参加しなかった事」 「金銭的なゆすりを断った事」 の二つです。 この事件のあと[ジミー・ルーカス]は隔離棟へ 半年間収監されて狂人になった。 そして神経梅毒の病状が悪化し、 ロサンゼルス付近の連邦矯正施設に移るり 1年近く過ごす事となる。 |
1939年 10月25日 |
FBI捜査官[D・W・マジー]が面会に訪れる。 病状の悪化のためか、現実と妄想の 区別が付かなくなってきている。 |
1939年 11月16日 |
約8年間の監獄生活が終わりになり釈放される。 収監前の自信に満ち溢れた[アル・カポネ]の姿はどこにも無かった。 |
1940年 (?) |
ボルチモアのユニオン記念病院で 梅毒の治療を4ヶ月間受ける。 治療後は「フロリダのパーム・アイランド」に 住居を構えて新たな生活を始める。 たまにシカゴ(暗黒街)の人間などが訪れてきたりもした。 |
1945年 |
病状がさらに悪化。民間人ではじめて ペニシリンを投与されたが効き目 (進行しすぎで)が無し。 |
1947年 1月25日 |
土曜日、午前7時25分
[暗黒街の帝王アル・カポネ]永眠
|
1947年 2月4日 |
葬儀が行われる。 |
今回も色々と知らないことが多かったです。
今までは映画『アンタッチャブル』を観た時の印象ぐらいしか
なかったのです。
一番びっくりしたのが「26歳で暗黒街の帝王」にまで出世していたのです。
26歳って・・・物凄い事です。
そして一番がっかりしたのが「死因が病気、しかも梅毒!!」でした。
彼位の大物だったら「暗○」かと思ったのです。
当時としては大変な病気だったみたで・・・でも寂しい気分になりました。
今回の知識をもって映画『アンタッチャブル』を久しぶりに
見てみたいと思います。
今回は[アルカ・ポネ]について調べてみたいと思います。
アルフォンス・ガブリエル・カポネ(Alphonse Gabriel Capone) 1899年1月17日 - 1947年1月25日 |
カポネ家 イタリア・ナポリからアメリカ・ニューヨークに移民してきた家族。七男二女の四男 |
禁○法時代(1919年~1933)に シカゴで高級ホテルを住まい兼事務所して 密造○製造・販売・○春業・賭○業で巨万の富を得る。
顔に傷があったことで「スカーフェイス(向こう傷)」しかし本人はきにいってなかった |
『主な登場人物』
『ジョン・トーリオ(John Torrio)』
(1882年2月 - 1957年4月16日)イタリア系シカゴのギ○ングスター
|
シカゴ・アウトフィット(The Chicago Outfit)のボス
10代の頃は八百長で財を築く
煙草も酒も賭博もやらず8歳年下の妻を非常に大事にしていた。 |
『フランキー・イェール(Frankie Yale)』 (1893年1月22日 - 1928年7月1日)イタリア系ニューヨークのギ○ング |
ブラック・ハンド(○迫を得意とするイタリア系○○組織の総称)のボス
金持ちから奪うい、貧しい者に分け与えるを心情にしていたので
シチリア人達の友愛組織をシチリア同盟として纏め上げた人物で 彼も[アル・カポネ]の暗黒街での育ての親的な存在。 |
『ジェームズ・コロシモ(James Colosimo)』 (1878年2月16日 - 1920年5月11日)イタリア系シカゴのギ○ングスター |
無類のダイヤモンド好きで、全ての指にダイヤの指輪を付けていたぐらいで
少年時代は靴磨きや新聞売りなどで生活していた。
大型の○春宿を経営していた[ヴィクトリア・モレスコ]と財産目当てで結婚する。 |
『ダイオン・オバニオン(Dion O'Banion)』 (1892年7月8日 - 1924年11月10日)アイルランド系シカゴのギ○ングスター |
冷酷で○暴(25人~63人を自分の手で○害している)な一面があるが
酒の密○で富を得ている。
慈善行為に積極的で寄付を惜しまなかった。 |
『ジョージ・モラン(George Moran) 』 (1891年8月21日 - 1957年2月25日)アメリカ系?シカゴのギ○ングスター |
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ダイオン・オバニオン]の組織を継いだ[ハイミー・ヴァイス]の副官 [アル・カポネ]の組織を執拗に付け狙う。 |
『ジェンナ兄弟(Genna Brothers)』 イタリア系シカゴのギ○ングスター |
アンジェロ(Angelo)アントニオ(Antonio)マイク(Mike)
禁○法時代に政府から工業用アルコールを生産する許可を得ていて、裏では密○酒を作り出す。
警察関係の○収も精力的に行い、ピーク時には400人以上に賄○をしていた。 事業の拡大で[ダイオン・オバニオン]の縄張りで商売をし始めて対立する。 |
『アル・カポネ 駆け出し篇』 | |
1899年 1月17日 |
ニューヨークのブルックリンにイタリアの ナポリから来たイタリア系アメリカ人の家の4男として生まれる。 |
1911年 (1912年) |
少年時代のアルは6年生まで成績も良かったが その後は、学校をサボるようになる。 ビリヤードの名手で、「アドニス社交クラブ」という 不良の溜まり場に出入する様になる。 この時期にイタリアン・マフィアの幹部[ジョニー・トーリオ]とも出会う。 |
1912年~ |
[ジョニー・トーリオ]の紹介で[フランキー・イェール]と出会う。 彼の店「ハーヴァード・イン」でバーテンダー兼用心棒として 働き暗黒街の仕事の基礎を学んでいく。 当時、[フランキー・イェール]に借金をしていた男 [トニー・ペロッタ]の所に取り立てに行くと [トニー・ペロッタ]の抵抗に手に負えなくなり排除した。 この事件により「難しい仕事(○人)」をこなせる人物として 認識されて[フランキー・イェール]に気に入られる様になる。 |
1918年 12月4日 |
[メアリー・ジョゼフィン・カフリン]との間に [アルバート・フランシス・カポネ](通称ソニー)が誕生。 |
1918年 12月30日 |
ニューヨーク市ブルックリンの セント・メアリー・スター・オブ・ザ・シー教会 で[メアリー・ジョゼフィン・カフリン]と結婚式を行った。 |
1919年~ |
結婚してから暗黒街での仕事を辞めて、 建設会社に簿記係として就職する。 しかし父[カブリエーレ・カポネ]の亡くなった頃から 暗黒街での付き合いが再開し始める。 |
1920年
?
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競争熾烈なブルックリンの街に見切りをつけた [ジョニー・トーリオ]に呼ばれて「シカゴ」へ行く ホワイト・ハンド(アイルランド系ギ○ング)を痛めつけ [ワイルド・ビル・ロベット]から狙われていた他にも 2件の○人事件に関与し、起訴されそうでもあった 時期だったので呼びかけに応じる。 友人の[ラッキー・ルチアーノ]から2万ドルの 餞別をもらったという。[ルチアーノ]は後年 「カポネのやつ感極まって、今にも泣きそうな顔だったよ」 と語っている。
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1920年
5月11日
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[ジョニー・トーリオ]と酒の秘○で対立の結果 [ジム・コロシモ]は[フランキー・イェール]の手によって暗○される。 [ジョニー・トーリオ]が権力を持つと共に、 [アル・カポネ]も雇われからパートナーに出世し大金稼ぎ 実業家になっていた。 (この時期に、ブルックリンに妻子、母、兄弟達を呼び寄せる) |
1924年 5月 |
[ジョニー・トーリオ]と[アル・カポネ]は[ダイオン・オバニオン] よりシーベンの酒造所を譲渡される。 (持ち株を安く売ってもらったという説もある) しかしこの酒造所は警察の手入れがある事を知っていた [ダイオン・オバニオン]の罠でした。 結果[ジョニー・トーリオ]が○捕される。これを期に [ダイオン・オバニオン暗○]が計画される。 |
1924年 11月10日 |
[ダイオン・オバニオン]は経営する花屋で暗○される。 実行ハンは三名 [ジョニー・トーリオ]が呼び寄せた [フランキー・イェール](イェールではなくマイク・ジェンナ説もあります)
[ジェンナ兄弟]が「シチリア」から呼び寄せた○し屋
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1925年 1月12日 |
[ダイオン・オバニオン]のサツ害後に組織を継いだ [ハイミー・ヴァイス]とその副官[ジョージ・モラン]による [アル・カポネ]暗○計画が実行される。 [アル・カポネ]の車にトミーガンで攻撃したのだが、 [アル・カポネ]は乗っていなくて助かる。 |
1925年 1月24日 |
[ジョニー・トーリオ]は妻との買い物帰りに○撃される。 「胸・首・右手・股間」を撃たれる。 (運が良くとどめの一撃の時に相手の弾が空だった) 回復後、1925年2月9日[ジョニー・トーリオ]は以前の シーベン醸造所事件の手入れ件で 「5千ドルの罰○と9ヶ月の○役」になる。 権力を存分に使って気楽な○務所暮らしをした。 |
1925年 5月 |
[ジェンナ兄弟]のアンジェロも[ジョージ・モラン]の 手によって○害される。 |
ジョニー・トーリオ]は暗殺事件を期に引退を決意する。 [アル・カポネ]に組織を譲り渡す。 条件、10年間利益の25%と[アル・カポネ]の相談役になる事でした。 |
次回[アル・カポネ2]に続きます。
『ヴラド3世(Vlad III) 』 |
1431年 - 1476年 |
通称「ドラキュラ公・串刺し公」
アイルランド人の小説家[ブラム・ストーカー(Bram Stoker)]の作品
「ドラキュラ」に登場する[吸血鬼・ドラキュラ伯爵]のモデル
ルーマニア独立のために戦った英雄
『ヴラド3世の人生』 | |
1431年 (1430年?) |
トランシルヴァニア地方のシギショアラで 『ヴラド2世』の息子(次男)として生まれる。 |
1436年 |
『ヴラド2世』がワラキア公になる オスマン帝国と敵対する。 |
1444年 | オスマン帝国との戦闘が激化 |
『ヴァルナの戦い』 | |
ハンガリー王国 ポーランド王国 ワラキア公国 リトアニア大公国 ローマ教皇連合軍 クロアチア王国 セルビア王国 ボヘミア王国 ボスニア王国 神聖ローマ帝国 |
VS オスマン帝国 |
[オスマン帝国]に敗退
[ワラキア]敗退につき[オスマン帝国]の支配下に入る |
|
1447年 |
[ヴラド2世]と兄[ミルチャ]が暗○される (トランシルヴァニア公でハンガリーの有力者 [フニャディ・ヤーノシュ]が暗○を指示という説がある)
[フニャディ・ヤーノシュ]はダネスティ家の |
1451年 |
亡命先の「モルダヴィア」の[アレクサンドル公]が病死 [ヴラド3世]は「トランシルヴァニア」に渡り 以前対立していた[フニャディ・ヤーノシュ]の許へと |
1456年 |
[ヴラディスラフ]はハンガリーの意見を聞かずに 独立しようとしていた。 それを阻止するために[ヴラド3世]を支援し ワラキア公の地位に就かせる。 |
1459年 |
[ヴラド3世]は「ワラキア領内」の貴族達を掌握し 直属の直轄軍を編成し、権力を強める。 その頃から「オスマン帝国」への貢納を拒否する。
「オスマン帝国」側も使者を派遣し貢納を要求するが |
1462年 |
ついに[ヴラド3世]は[メフメト2世]の首をとるべく 夜襲をかける。 激しい戦いの末に[メフメト2世]の首には 手が届かなかったが 「オスマン帝国」に多大の損害をあたえる。
|
1462年 (同年) |
「オスマン帝国」は[ヴラド3世]の 弟[ラドゥ(美男公)]を支援する。 [ヴラド3世]に恨みを持つ貴族達を集めて 襲撃させて追い出す事に成功する。
[ヴラド3世]はトランシルヴァニアに落ち延びるが、 |
1474年 |
[マーチャーシュ1世]の妹と結婚し 正教会からカトリックに改宗し、 12年間の幽閉から釈放される。 (ワラキアの民は正教会中心だったので 人心を失う事になる) |
1476年 (1477年?) |
三度目のワラキア公の地位に就く。 後に「オスマン帝国」との戦闘で戦死する。 (同国の貴族による暗○説もある)
戦死後、[ヴラド3世]の首は塩漬けにされて |
『ヴラド3世の通称』
『串刺し』
[ヴラド3世]が好んで使った処○法が、「串刺し」です。
「串刺し」の刑は、平民(重罪人)にのみ使われていたのです。
この時代の身分の高い(貴族など)が処刑される時は「斬首」が
基本だったのです。
そこで[ヴラド3世]は自分に敵に対しては貴族でも平民でも
関係なく「串刺し」の刑にしたのです。
この行動により、敵対心を折る事ができます。
[メフメト2世]が首都に攻め入ってきた時にも、戦意を奪う程の
「串刺し」刑の山を見せ付けています。
『ドラキュラ』
父親の[ヴラド2世]の通称が「ドラクル(竜公)」だったのです。
竜騎士団に属していたので「ドラクル」と呼ばれていました。
そこで「ドラクルの息子だからドラクレア」で英語読みの
「ドラキュラ」になった。
その他に[ヴラド2世]の通称の「ドラクル(竜)」は
「竜=悪魔」と同一視されていた事と「串刺し」などの残酷な
イメージから「悪魔公」とも呼ばれるようになった。
『ヴラド3世の残酷な伝承』
近隣の貴族を酒宴に招待し、皆殺しに。
「オスマン帝国」の使者を「串刺し」にした。
「オスマン帝国」の使者が帽子を帽子を脱ごうと
しなかったので 帽子ごと使者の頭に釘を打ち付ける。
疫病流行時に、病人たちを一箇所に集め、焼き殺す。
オスマン帝国軍を見せしめに、「串刺し」にした○体を
大量に晒し物にする。
その他にも幽閉時には
「無差別に人を殺して、血肉を食した!!」
「田畑を燃やして農民を苦しめた!!」
とかもあります。
『ヴラド3世は英雄!?』
時代的に「ワラキア」は「オスマン帝国」や他の隣国の
脅威に怯えていました。
その為に、権力を得るために近隣の貴族を皆○しにしたり
「オスマン帝国」からの使者を殺したりし、毅然なる態度を
示したのでしょう。
見せしめの「串刺し」にした死体を晒すというのも
「ワラキアに手を出したらただではすまさない!!」
と言う意味にも感じられるのです。
病人達を焼き殺した時も、「疫病の流行」を止める為です。
「オスマン帝国」の脅威に怯え続けてきた
「ワラキア」の民にとっては
「英雄」
と呼んでもおかしくないと思われます。
今回も知らないことばかりでした。
知っていたのは小説「ドラキュラ」のモデルで
「串刺し公」と呼ばれた残酷な君主!!ぐらいでした。
「オスマン帝国」と戦っていたり
領土を捨てて逃げたりと、思いのほか忙しい人生みたいでした。
ただの残酷な君主だと思っていたので以外でした。
そういえば小説や映画で「ドラキュラ」を見た事がないので
見てみたいと思います。