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前回からの続きです。
『ジャンヌの敗戦』
国王の命令で、引き続き従軍をしているジャンヌの
次の目的は「首都であるパリ奪還!!」
シャルル7世の地位は磐石にするためです。
この考えに賛同したのが[ジャン2世・ド・ヴァロワ]などのタカ派(強硬派)
現状の成果に満足している国王側近のハト派(穏健派)
結局は複雑な政治情勢に巻き込まれてジャンヌは孤立し
援護もない戦いに挑まないといけなくなります。
1430年5月23日(コンピエーニュの戦い)
ジャンヌはブルゴーニュ軍に捕えられてしまいます。
そしてイングランド軍に1万リーブルの身代金と
引き替えに身柄が引き渡されしまいます。
1430年12月24日 ルーアンのブーヴルイユ城に監禁される
『ジャンヌを裁判』
1431年2月21日、捕らえたれたジャンヌは異端審問裁判(魔女裁判!?)にかけられる。
裁判長[ジャン・ル・メートル(Jean LeMaitre)]でしたが
実際に取り仕切っていたのはイングランドの息のかかった
[ピエール・コーション(Pierre Cauchon)]でした。
その他にも60名を超える聖職者たちが裁判にたずさわっていました。
この裁判の一番の争点は
「ジャンヌの聞いた声(神託)」
についてでした。
『声(神託)の正体』 | |
ジャンヌの主張 | 教会側 |
聖女カトリーヌ 聖女マルグリット 大天使ミカエル |
森の精霊 悪魔の声 |
結果ジャンヌは悪魔崇拝の異端者であると結論づけられてしまいます。 (普段から男装していたのも異端とされた。) |
『ジャンヌと裁判官の二人』 | |
ジャン・ル・メートル (Jean LeMaitre) |
大審問官ジャン・グラウランが他の異端裁判で出張中だったので
彼は裁判の正当性に疑問を抱いていたらしく 異端審問裁判後はルーアンのドミニコ修道院の修院長を勤めている |
ピエール・コーション (Pierre Cauchon) |
[ランス]出身の聖職者。 ジャンヌ異端審問裁判では代理裁判長つとめる。 イングランド・ブルゴーニュ派(敵対組織)と結びつきが強く ジャンヌの活躍で色々な地位を失ってしまい恨んでいる。 イングランド関係の強い要望が「ジャンヌの火刑!!」 彼の意思も同じ「ジャンヌの火刑!!」 |
『ジャンヌに判決』
5月24日 判決が言い渡された!!
本来、ジャンヌは火刑が言い渡される予定でしたが
判決を読み上げている途中で本人の口から「異端」と認める。
そのため、教会の指示に従い誓約書に署名し改宗する事で火刑は免れ
変わりに永久入牢の刑が科せられた。
しかしこの時に署名した誓約書は
[読み上げた内容と文面の内容が違っていたと言われてます。]
5月28日、牢獄で女性の服装をしていたジャンヌが男性の服装に戻っている事件がおきる。
[異端再犯]
この言葉は救済はない事として、火刑が言い渡される。
『ジャンヌは異端再犯!?』
最初に状況を整理しておきたいです。
「彼女は投獄されています。」
そこで男性の服を手に入れる事ができるのか!?
一番簡単なのが「看守なり外の人間が服を持ってくる」ですね!!
ジャンヌが自分の力で洋服を出した!!とかなら
牢獄なんて何の意味もないですね。
そして投獄されていたのがイングランド軍の牢獄なのです。
答えは簡単だと思います。
[フランスの英雄]=[イングランドの宿敵]ですから
イングランドの目的は「ジャンヌの火刑!!」ですから
ただ単に殺すのではなく、社会的にも抹殺する事を目的としているので
[異端再犯]にしたてあげてたのですね。
あと書かれている話ですが、投獄中に看守などに酷い事をされていたと。
この時代背景ではありえる話で気分が悪くなります。
『ジャンヌの最後』
5月30日、異端者として教会から破門、即時死刑を宣告される。
[ルーアン市内のヴィエ・マルシェ広場で火刑に処される]
刑が実行されるまでは怯えていたのですが
実行されると毅然とし神への信仰を捨てていなかったとされている。
『火刑』 |
この時代のキリスト教徒にとって一番過酷な刑が火刑になります。
火刑とは自分の体が灰になるので、最後の審判の時の復活する体が無くなる事を意味する |
『ジャンヌの名誉回復』
1449年11月10日、フランス軍がイングランド軍を打ち破り
ルーアン城を解放する。
1450年2月15日、国王であるシャルル7世の命令で異端審問裁判の
調査が行われた。
調査の結果を当時のローマ教皇(カリストゥス3世)に提出した事で
異端審問裁判のやり直しが行われた。
1455年11月7日、ジャンヌの母の訴えにより復権裁判が行われた。
復権裁判には[ジャンヌの戦友達][オルレアンの市民達]など
115名のジャンヌの縁のある人々が証人として呼ばれた。
1456年7月7日、ジャンヌの刑が実行された地ルーアンにて
処刑裁判の無効が宣告され
異端者の汚名からジャンヌの名誉が回復する事ができたのです。
『ジャンヌの死後』
1909年4月18日、ピウス10世によってノートルダム大聖堂で
福者(Beatus)の称号を得る。
1920年5月16日、ベネディクトゥス15世によってサン・ピエトロ大聖堂で
聖人(Saint)の称号を得る。
守護対象[フランス]
ジャンヌはフランス全土では知名度はそれほど高くかったみたいです。
もちろん一緒に戦った軍隊や解放した都市の住人には人気があった。
とくに解放した都市のオルレアン市民には人気で
『オルレアンの乙女(la pucelle d'Orleans)』
と呼ばれて市内に家も提供してもらっていた。
ジャンヌが捕らえられた時には身代金を寄付していたといいます。
(この時の寄付金はシャルル7世が没収したみたいです。)
そんなジャンヌがフランス全土で知名度を得るようになるのは
政治的な戦略があったみたいです。
最初にジャンヌの名前を使ったとされるのが
あの有名な[ナポレオン・ボナパルト]みたいです。
聖人になり守護対象が[フランス]となる人物なので
色々な政治家の手によって[愛国主義][国民統合]などの
シンボルにされてきたのです。
もちろん芸術や文学の題材とされる事も多かったのです。
現代においても多くの映画、小説などの題材にされています。
今回も知らない事が多かったですね。
少しはジャンヌについては知ってはいたのです。
映画で見たぐらいだったですが・・・。
ジャンヌのエピソードが少ないので
映画だけでも結構な知識になっていたのです
ただ、それはエピソードだけで
時代背景や、戦友の事などは
調べてみるまでぜんぜん知らなかったのです。
やはりこの時代位の話は残酷な事が多いですね。
戦争は何時でも残酷ですけどね・・・。
今度は戦友の名前や背景を確かめながら
映画を見てみたいです。