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[エドガー・アラン・ポー]について調べてみたいです。
エドガー・アラン・ポー
(Edgar Allan Poe)
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生年月日 |
1809年1月19日 - 1849年10月7日 |
出身地 |
マサチューセッツ州 ボストン |
アメリカ合衆国の小説家、詩人、雑誌編集者 |
『エドガー誕生』 |
1809年 (誕生) |
マサチューセッツ州ボストン市、俳優をしている両親 デイヴィッドとエリザベスの間に、次男として生を受ける。 「エドガー」という名は両親が1809年に公演した [シェイクスピア]の『リア王』から取ったとされる。 |
1810年(1歳) |
エドガーが1歳の時に、父親のデイヴィッドは突然家族を 捨てて失踪。 その時、母親のエリザベスは長女ロザリーを身ごもっていた。 そのため出産の前後は貧困生活に、産後の肥立ちも悪い。 |
1811年 (2歳) |
母親のエリザベスは体調不良の中、生活の為に1月に 舞台に復帰。 同年の12月に結核を患い亡くなってしまう。 |
母親の死によって完全に両親がいなくなってしまったエドガー
エドガーが引き取られたアラン家はかなり成功した商人の家庭で そしてここであの有名な名前 「エドガー・アラン・ポー」
が、完成したのです。 |
『エドガー・渡英する』 |
1815年 (6歳) |
前年の米英戦争終結を期に、アラン家は事業拡大のため イギリスへエドガーは短期間ではあるが英国の伝統的な 教育機関である文法学校グラマー‐スクールへ通っていた。 |
1816年 (7歳) |
エドガーはアラン一家と共にロンドンへ移り住む。
しかし養母フランセスが病を患い、転地療養で |
1817年 (8歳) |
ロンドンの郊外にあるマナー・ハウス学校で 寄宿舎生活をする。 ここでの学園生活が後の「ウィリアム・ウィルソン」で 活かされる事になる。 |
1820年 (11歳) |
アラン家の事業拡大は失敗に終わりアメリカの リッチモンドに戻る事になる。 リッチモンドに戻りエドガーはアイルランド人が経営する 学校に通う。 エドガーはここで語学(外国語・古典文学)などを学び優秀な 成績を収める。 一方、アラン家の業績が悪化の一途をたどる。 |
1825年 (16歳) |
アラン家崩壊、商会を解散し自宅も売却する。 その遺産でリッチモンドに豪華な2階建ての家を購入する。 |
『転がる・エドガー』 |
1826年 (17歳) |
新設されたばかりのヴァージニア大学に入学する。
この頃、エドガーは1人の女性と恋をしていた。
しかしサラの父親は、エドガーとの交際を認めずに
さらにエドガーの不幸が加速する。
楽して稼げるわけもなく惨敗していく。
結果、エドガーは自分の力ではどうにもできない金額の |
1827年 (18歳) |
1827年の3月、借金のためヴァージニア大学を辞め、 アラン家も家出同然でボストンへ向かう。 ボストンでは偽名「アンリ・ル・ランネ」と名乗り、色々な アルバイトで日銭を稼いで生活していた。 |
次回[エドガー・アラン・ポー2]へ続く
今回はアメリカの[モダン・ホラー]の巨匠
[ステーブン・エドウィン・キング]について調べてみたいです。
スティーヴン・エドウィン・キング (Stephen Edwin King) |
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生年月日 | 1947年9月21日 |
出身地 |
アメリカ合衆国 メイン州ポートランド |
モダン・ホラー作家で、作品の共通点としては 舞台を[キャッスル・ロック]という架空の町に設定している事が多く 細かく読んでいくと、小さな繋がりが作品どうしにあり ほぼ全ての作品が繋がっている。 |
『生い立ち』 |
1947年9月21日に父ドナルドと母ネリーの間の第2子として生まれる。
しかし不幸はすぐに始まる。
その後、母のネリーは朝から深夜まで働き
そしてスティーブンはウサギを主人公にした物語(4話)を書き
文章を書いたりする事が好きな子供だったスティーブンに
ちなみにスティーブンは幼い頃から、殺人事件のスクラップを集めていた。 |
『学生時代』 |
1966年~1970年 母親の勧めにで、教員免許を得るためオロノにある |
『大学卒業後の生活』 |
卒業し教師の職を探したのだが、見つからなかった為に
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『小説家としての始まり』 |
全てを決定させたのが妻タビサの存在だった。
スティーブンがある小説を執筆中に、初稿3ページまで書いて
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『私生活』 |
スティーブンは80年代に薬物依存症になる。
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『別名義』 |
アメリカの出版業界では作家1人で1年に1冊だけ出版するという
その時に使った別のペンネームは |
『リチャード・バックマンの名義作品』 |
『ハイスクール・パニック(1977年)』(Rage) |
『死のロングウォーク(1979年)』(The Long Walk) |
『最後の抵抗(1981年)』(Roadwork) |
『バトルランナー(1982年)』(The Running Man) |
『痩せゆく男(1984年)』(Thinner) |
『レギュレイターズ(1996年)』(The Regulators) |
『Blaze(2007年)』 |
今回は知っている作品が多かったのですが
[ステーブン・エドウィン・キング]の作品の多さに驚きました。
知っている数と知らない数の比率が酷い事になりました。
しかし、生い立ちなどを調べていたのですが
キーになっているのは、女性ですね。
彼の人生で2人の女性の存在が大きいと思います。
母子家庭の[スティーブン・エドウィン・キング]の家は幼い頃は
風呂がなく、遠くの親戚の家に風呂を借りに行っていたみたいで
金銭的にはかなり厳しい状態だった中に
それでも文章を書く事が好きな息子に
クリスマスのプレゼントとしてタイプライターをプレゼントした
母親のネリーが1人目です。
そして2人目は妻タビサです。
大学を卒業してすぐに結婚したのは苦労とは思わないのですが
デビュー作の『キャリー』のエピソードなどは
[スティーブン・エドウィン・キング]の作家人生の起点になっています。
彼の小説への情熱を理解していないと決してできない事です。
それに成功後の依存症の克服への手助けなどは素敵だと
思います。
二人の女性に恵まれてこその、今の作家としての
[スティーブン・エドウィン・キング]だと思います。
映画化された作品が多いので有名で未だに見ていない
[ショーシャンクの空に]でも、今度みてみたいと思います。
今回は『フランシスコ・フォード・コッポラ』について調べてみたいです。
『フランシス・フォード・コッポラ』 (Francis Ford Coppola) |
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生年月日 | 1939年4月7日 |
出生地 | ミシガン州デトロイト |
国籍 | アメリカ合衆国 |
職業 |
映画監督・映画プロデューサー 脚本家・実業家 |
『フランシスコ・コッポラ 映画との関わり』 |
ホフストラ大学で演劇を学びながら、
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『プロとしてのスタート』 |
「低予算映画の王者」と呼ばれる映画プロデューサー [ロジャー・コーマン]の元で本格的な映画制作活動を始める。
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『起死回生の作品』 |
[マリオ・プーゾ]原作の『ゴッドファーザー(1972年)』の映画化により [フランシス]は救われる事になる。 $6,000,000の制作費で興行収入$245,066,411 簡単に計算しても40倍の興行収入なり 当時の興行記録を塗り替える大ヒットになります。
『地獄の黙示録(1979年)』
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『転落への切欠』 |
『ワン・フロム・ザ・ハート(1982年)』 この作品で、自身の映画会社を売却することになる失敗をする。
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『黒澤明監督との関わり』 |
日本映画の巨匠[黒澤明]監督の熱烈なファンであり
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『映画以外のビジネス』 |
[ニバウム・コッポラ・ワイナリー(Niebaum-Coppola Winery)]経営している。 前身のワイナリーはカリフォルニア州ナパバレーに存在しており、 1985年にビンテージワイン「ルビコン」を発売し世界的評価を受ける。
ワイナリーの敷地内には[フランシス]が手がけた映画の博物館が
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今回は個人的に大好きな作品の監督『フランシスコ・フォード・コッポラ』
について調べてみました。
『ゴットファーザー・シリーズ』『地獄の黙示録』『ドラキュラ』などが大好きです。
正直、今上げた作品は『フランシスコ・フォード・コッポラ』監督だからという
訳ではなく個人的に好んで見ていた映画の監督が
『フランシスコ・フォード・コッポラ』監督だったのです。
まぁ調べてみる動機にはなりますね!!
そして今回は経済的にも成功している監督なのに、
窮地に陥っているのですね。
成功者とはだいたい窮地に陥っているものですね・・・あと、一度成功すると
調子にのって自分で窮地を作り出すのも共通点ですね。
今回の一番おどろいたのは、[ジョージ・ルーカス]の名前が調べていると
結構でてくるのです。
一緒に会社を経営していたり、一緒に映画を製作していたり
ワイン制作のビジネスをしていたりと、驚きました。
『フランシスコ・フォード・コッポラ』が監督した
新しい年代の映画はぜんぜんみていないので今度みてみたいです。
個人的には『Virginia/ヴァージニア』が興味を惹かれます。