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2025 .07.05
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今回は文学界に多大な影響を与えた人物
[エドガー・アラン・ポー]について調べてみたいです。


エドガー・アラン・ポー
(Edgar Allan Poe)

生年月日 

1809年1月19日 - 1849年10月7日 

出身地 

マサチューセッツ州 ボストン 

アメリカ合衆国の小説家、詩人、雑誌編集者  


『エドガー誕生』
1809年
 (誕生)
 
マサチューセッツ州ボストン市、俳優をしている両親
デイヴィッドとエリザベスの間に、次男として生を受ける。

「エドガー」という名は両親が1809年に公演した
[シェイクスピア]の『リア王』から取ったとされる。
1810年(1歳) エドガーが1歳の時に、父親のデイヴィッドは突然家族を
捨てて失踪。

その時、母親のエリザベスは長女ロザリーを身ごもっていた。
そのため出産の前後は貧困生活に、産後の肥立ちも悪い。
 
1811年
 (2歳)

母親のエリザベスは体調不良の中、生活の為に1月に
舞台に復帰。

同年の12月に結核を患い亡くなってしまう。 
 

母親の死によって完全に両親がいなくなってしまったエドガー
兄弟の長男であるウィリアムは父方の実家に引き取られ。

エドガーは両親の友人のアラン家へ、妹のロザリーはアランの
友人のへそれぞれ引き取られる事になる。

エドガーが引き取られたアラン家はかなり成功した商人の家庭で
織物・小麦・墓石・煙草・奴隷などの幅広く商品を扱う輸入業を
営んでいた。

そしてここであの有名な名前

「エドガー・アラン・ポー」

が、完成したのです。
どうも名は貰ったのですが、正式な養子の手続きはしてないみたいです。

 



『エドガー・渡英する』
1815年
(6歳)
前年の米英戦争終結を期に、アラン家は事業拡大のため
イギリスへエドガーは短期間ではあるが英国の伝統的な
教育機関である文法学校グラマー‐スクールへ通っていた。 
1816年
 (7歳)

エドガーはアラン一家と共にロンドンへ移り住む。
その時、寄宿舎生活を経験する。

しかし養母フランセスが病を患い、転地療養で
各地を移動する事になりエドガーも同行することになる。 

1817年
(8歳)
ロンドンの郊外にあるマナー・ハウス学校で
寄宿舎生活をする。

ここでの学園生活が後の「ウィリアム・ウィルソン」で
活かされる事になる。
 
1820年
 (11歳)
アラン家の事業拡大は失敗に終わりアメリカの
リッチモンドに戻る事になる。

リッチモンドに戻りエドガーはアイルランド人が経営する
学校に通う。

エドガーはここで語学(外国語・古典文学)などを学び優秀な
成績を収める。

一方、アラン家の業績が悪化の一途をたどる。
 
1825年
 (16歳)
 

アラン家崩壊、商会を解散し自宅も売却する。

しかし同時期にアランの叔父で富豪だった
ウィリアム・ゴールドが亡くなりアラン家に莫大な遺産が
転がりこむ。

その遺産でリッチモンドに豪華な2階建ての家を購入する。 



『転がる・エドガー』
1826年
(17歳)
 

新設されたばかりのヴァージニア大学に入学する。
エドガーは自主的活動を重んじる大学で学生寮で
生活しながら語学(外国語・古典文学)を熱心に学ぶ。

この頃、エドガーは1人の女性と恋をしていた。
彼女の名前は「サラ・エルマイラ・ロイスター」

しかしサラの父親は、エドガーとの交際を認めずに
サラを富豪の息子へと嫁にだしてしまう。

さらにエドガーの不幸が加速する。
義父のアランからの送金が送れ、金銭的に生活が
苦しくなる。

そして手を出してしまう「トランプ賭博」だった。

楽して稼げるわけもなく惨敗していく。
アランからの生活費の送金が届いても、トランプ・・・。

結果、エドガーは自分の力ではどうにもできない金額の
借金を作ってしまう。
事情をしったアランは賭博の負け以外の借金は
返済してくれた。 

1827年
(18歳)
 
1827年の3月、借金のためヴァージニア大学を辞め、
アラン家も家出同然でボストンへ向かう。

ボストンでは偽名「アンリ・ル・ランネ」と名乗り、色々な
アルバイトで日銭を稼いで生活していた。
 



次回[エドガー・アラン・ポー2]へ続く


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今回はアメリカの[モダン・ホラー]の巨匠
[ステーブン・エドウィン・キング]について調べてみたいです。


 

スティーヴン・エドウィン・キング
(Stephen Edwin King)
生年月日 1947年9月21日
出身地 アメリカ合衆国
メイン州ポートランド
モダン・ホラー作家で、作品の共通点としては
舞台を[キャッスル・ロック]という架空の町に設定している事が多く
細かく読んでいくと、小さな繋がりが作品どうしにあり
ほぼ全ての作品が繋がっている。


 

『生い立ち』

1947年9月21日に父ドナルドと母ネリーの間の第2子として生まれる。
ちなみにスティーブンには兄のデイヴィッドは養子です。
 

しかし不幸はすぐに始まる。
スティーブンが2歳の時に父ドナルドが失踪してしまう。
最後の言葉は「タバコと買いに行く」とそれだけの言葉を残して・・・。
 

その後、母のネリーは朝から深夜まで働き
二人の子供を育てあげるのです。
 

そしてスティーブンはウサギを主人公にした物語(4話)を書き
母親に読んでもらうと、母親は1話につき1セントのお小遣いを渡す。
これがスティーブンの物書きとしての最初のギャラ!?
 

文章を書いたりする事が好きな子供だったスティーブンに
母ネリーは1958年のクリスマスにタイプライターをプレゼントする。

このプレゼントを切欠になり雑誌に小説を投稿するようになる。
初の採用は1965年に『コミックス・レヴュー』誌に
『私は十代の墓荒らしだった』が掲載される。
 

ちなみにスティーブンは幼い頃から、殺人事件のスクラップを集めていた。
この趣味は、後の小説家としての彼には大いに役にたつ趣味です。


 

『学生時代』

1966年~1970年 母親の勧めにで、教員免許を得るためオロノにある
メイン大学に入学する。
20歳の時に『スタートリング・ミステリー・ストーリーズ』誌に投稿した
小説『鏡の床』が掲載される。

大学の2年から学内新聞のコラムを担当することになる。
在学中の図書館でのアルバイトで、タビサ・スプルースと知り合う。
1970年 英語で学士号取得し卒業し1971年の1月に
タビサ・スプルースと結婚する。


 

『大学卒業後の生活』

卒業し教師の職を探したのだが、見つからなかった為に
妻子を養うため、クリーニング屋で働きながら空いた時間を見つけては
短編小説を書いていた。

教師の職探しは続けており、何とかメイン州ハンプデンの
公立高校ハンプデン・アカデミーに英語の教師の職を得る。


しかし教師は考えていたより時間を束縛され、多忙な日々に
小説を書く時間すら得られなくなる。
経済的にも厳しくなり、休日もアルバイトをし、妻も働きにでて家計を助けてくれた。


 

『小説家としての始まり』
全てを決定させたのが妻タビサの存在だった。

スティーブンがある小説を執筆中に、初稿3ページまで書いて
ゴミ箱に捨ててしまう。

それを拾って読んだ彼女は、最後まで完成させるようにと励ました。
見事完成した小説が処女作『キャリー』、後に映像化もされる作品。


この作品のおかげで教師の年俸の三倍ちかい金額を手に入れる事になる。
当時のスティーブンは、たいした収入にはならないと思っていて
教師を続けていくつもりだったのだが・・・蓋を開けてみたら結構な金額に・・・。


『キャリー』は、1974年の春に出版される。
小説家として何とかスタートできたのが良い事ばかりではなかった。
1974年2月に最愛の母が癌のために病死してしまうのです。


同年の秋にメイン州を離れて、コロラド州ボルダーに移り住み
代表作の一つ『シャイニング』を書き上げる。


1975年の夏にメイン州に拠点を移し、次々とベストセラー作品を
執筆する事になる。


 

『私生活』

スティーブンは80年代に薬物依存症になる。
以前よりアルコール依存症だったのだが・・・・。


しかしここで、また妻タビサの存在が彼を助けるのです。
あまりに症状が酷くなってきたスティーブンに
「治療」か「家族」のどちらかを選択させる。
妻タビサの協力のもと、依存症を克服していく。


その他にも、人気作家になったスティーブンの家に
熱狂的なファンが侵入する事件。


別荘の近所を散歩中に、ライトバンに轢かれ重傷を負う。
運転者が飲酒運転をしていたという証言もある。
この時の事後で負った怪我は、回復しきらないで
未だに片足は不自由になった。


 

『別名義』

アメリカの出版業界では作家1人で1年に1冊だけ出版するという
風潮があったが、別のペンネームを使えば新たに出版できるのです。

その時に使った別のペンネームは
『リチャード・バックマン』
別のペンネームでもヒットを連発する。


 

『リチャード・バックマンの名義作品』
『ハイスクール・パニック(1977年)』(Rage)
『死のロングウォーク(1979年)』(The Long Walk)
『最後の抵抗(1981年)』(Roadwork)
『バトルランナー(1982年)』(The Running Man)
『痩せゆく男(1984年)』(Thinner)
『レギュレイターズ(1996年)』(The Regulators)
『Blaze(2007年)』

 


今回は知っている作品が多かったのですが
[ステーブン・エドウィン・キング]の作品の多さに驚きました。


知っている数と知らない数の比率が酷い事になりました。
しかし、生い立ちなどを調べていたのですが
キーになっているのは、女性ですね。
彼の人生で2人の女性の存在が大きいと思います。


母子家庭の[スティーブン・エドウィン・キング]の家は幼い頃は
風呂がなく、遠くの親戚の家に風呂を借りに行っていたみたいで
金銭的にはかなり厳しい状態だった中に
それでも文章を書く事が好きな息子に
クリスマスのプレゼントとしてタイプライターをプレゼントした
母親のネリーが1人目です。


そして2人目は妻タビサです。
大学を卒業してすぐに結婚したのは苦労とは思わないのですが
デビュー作の『キャリー』のエピソードなどは
[スティーブン・エドウィン・キング]の作家人生の起点になっています。


彼の小説への情熱を理解していないと決してできない事です。
それに成功後の依存症の克服への手助けなどは素敵だと
思います。



二人の女性に恵まれてこその、今の作家としての
[スティーブン・エドウィン・キング]だと思います。


映画化された作品が多いので有名で未だに見ていない
[ショーシャンクの空に]でも、今度みてみたいと思います。





今回は『フランシスコ・フォード・コッポラ』について調べてみたいです。


 

『フランシス・フォード・コッポラ』
(Francis Ford Coppola)
生年月日 1939年4月7日
出生地 ミシガン州デトロイト
国籍 アメリカ合衆国
職業 映画監督・映画プロデューサー
脚本家・実業家


 

『フランシスコ・コッポラ 映画との関わり』

 ホフストラ大学で演劇を学びながら、
 ソビエト連邦の映画監督[セルゲイ・エイゼンシュテイン]の作品を
 大学時代に研究していた。


 カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)にも在学し
 その頃からホラー映画やアダルト映画などの演出もしていた。


 

『プロとしてのスタート』
「低予算映画の王者」と呼ばれる映画プロデューサー
[ロジャー・コーマン]の元で本格的な映画制作活動を始める。


『フィニアンの虹(1947年)』当時28歳の[フランシス]を監督に抜擢され
その時のスタッフに大学生時代の[ジョージ・ルーカス]がいた。


1969年に映画制作会社[アメリカン・ゾエトロープ社]を設立する。
この制作会社の副社長は[ジョージ・ルーカス]に就任している。


[アメリカン・ゾエトロープ社]の『THX 1138(1971年)』で
[ジョージ・ルーカス]に初監督を任せて自身は製作総指揮を担当。
※『THX 1138(1971年)』は[ジョージ・ルーカス]大学在籍中に撮った
短編作品『電子的迷宮 THX-1138 4EB(1967年)』の長編映画版


『THX 1138(1971年)』の興行的に失敗で[アメリカン・ゾエトロープ社]と
社長である[フランシス]は経済的な窮地に追い込まれる。


 

『起死回生の作品』
[マリオ・プーゾ]原作の『ゴッドファーザー(1972年)』の映画化により
[フランシス]は救われる事になる。

$6,000,000の制作費で興行収入$245,066,411
簡単に計算しても40倍の興行収入なり
当時の興行記録を塗り替える大ヒットになります。


1990年には[アメリカ国立フィルム登録簿]に永久保存登録される事になる。


次回作の『ゴッドファーザー PART II(1974年)』も世界的に大成功し
1993年には[アメリカ国立フィルム登録簿]の保存登録される。


そして『ゴットファーザー・シリーズ』以外の代表作

 

『地獄の黙示録(1979年)』


の登場になります。
後悔当時は賛否両論の評価だったが
興行的には成功し2000年には[アメリカ国立フィルム登録簿]
に保存登録される。


 

『転落への切欠』

『ワン・フロム・ザ・ハート(1982年)』

この作品で、自身の映画会社を売却することになる失敗をする。


物語は「ラスベガスを舞台とした恋愛映画」と普通の作品だったのですが
問題は「制作費をかけすぎた」です。


撮影を室内のセットで撮影をしたかったみたいで巨額な制作費をかけたのですが
制作費を回収できなかったのです。


以降は、物凄いヒット作品はなく、失敗もなく・・・
まぁ制作費回収できてない作品もありますが、元気に監督を続けています。


 

『黒澤明監督との関わり』

日本映画の巨匠[黒澤明]監督の熱烈なファンであり
学生時代にノーベル事務局に、[黒澤明]監督に
ノーベル文学賞を授与して欲しいと手紙を送っているほど。


自身が監督を務めた『ゴッドファーザー』のファーストシーンの
結婚式の場面は、[黒澤明]監督作品の『悪い奴ほどよく眠る(1960年)』
の手法を模したといわれている。


同じく[黒澤明]監督の作品の『影武者(1980年)』では海外版の
プロデューサーとして[ジョージ・ルーカス]と共に参加している。


 

『映画以外のビジネス』
[ニバウム・コッポラ・ワイナリー(Niebaum-Coppola Winery)]経営している。
前身のワイナリーはカリフォルニア州ナパバレーに存在しており、
1985年にビンテージワイン「ルビコン」を発売し世界的評価を受ける。

ワイナリーの敷地内には[フランシス]が手がけた映画の博物館が
併設されている。


後に[コッポラ・ワイナリー]を別場所にオープンしたので
名称を商品名である[ルビコン・ワイナリー]と変更すし博物館は
新たなワイナリーに移動した。


商品のラインナップも[コッポラ・ワイナリー]では低価格の商品を
[ルビコン・ワイナリー]では高級な商品を提供する様になる。


そしてワイナリーで販売している商品に「スカイウォーカー ランチ ワイン」
が存在する。
名前から想像できる通り[ジョージ・ルーカス]の経営する
[ルーカスフィルム本社]が陣取る
[スカイウォーカーランチ]で育でた葡萄で作られたワインです。


このワインビジネスで多大な利益を得て、大成功を収めている。

 


今回は個人的に大好きな作品の監督『フランシスコ・フォード・コッポラ
について調べてみました。

ゴットファーザー・シリーズ』『地獄の黙示録』『ドラキュラ』などが大好きです。

正直、今上げた作品は『フランシスコ・フォード・コッポラ』監督だからという
訳ではなく個人的に好んで見ていた映画の監督が
フランシスコ・フォード・コッポラ』監督だったのです。


まぁ調べてみる動機にはなりますね!!


そして今回は経済的にも成功している監督なのに、
窮地に陥っているのですね。

成功者とはだいたい窮地に陥っているものですね・・・あと、一度成功すると
調子にのって自分で窮地を作り出すのも共通点ですね。


今回の一番おどろいたのは、[ジョージ・ルーカス]の名前が調べていると
結構でてくるのです。


一緒に会社を経営していたり、一緒に映画を製作していたり
ワイン制作のビジネスをしていたりと、驚きました。


フランシスコ・フォード・コッポラ』が監督した
新しい年代の映画はぜんぜんみていないので今度みてみたいです。
個人的には『Virginia/ヴァージニア』が興味を惹かれます。




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