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今回は[エドガー・アラン・ポーその2]の続きです。
『エドガー・文章と共に』 |
ウェスト・ポイント陸軍士官学校を退学後、ボルティモア移り住み |
『主な出来事』 |
1831年(22歳) | 『1831年8月』 実兄のウィリアム=ヘンリー 結核で死去 |
1833年 (24歳) | 『1833年9月』 |
1836年 (27歳) | 『1836年5月』 仕事が起動に乗っり、ヴァージニアと結婚式を 挙げたる。 |
1842年 (33歳) | 『1842年1月』 妻ヴァージニアが自宅で喀血する。 結核の兆候だった。 |
1846年 (37歳) | ニューヨーク・ブロンクス区にある木造家屋に転居。 |
1847年 (38歳) | 『1847年1月』 妻ヴァージニア死去 |
1849年 (40歳) | エドガーは仕事でリッチモンドへ、ヴァージニア大学の学生時代の恋人だった エルマイラ・ロイスターと再会する。彼女は未亡人になっていて 度重なる求婚の末婚約する。 |
『エドガーの死』 |
1849年 (40歳) | 『1849年9月27日』 |
『エドガーの死因』 |
時代が時代なので、エドガーの死亡証明書を含め、ポーの診断書は 発見された時は、泥酔状態でしかも本人の服ではなく ※もちろん「怖い人」達が行っていたと思われるので逆らえません。 |
今回の[エドガー・アラン・ポー]は名前だけ知っていて
殆どの事が知らないことでした。
どうも[エドガー]は「アメリカ合衆国において文筆だけで身を立てようとした
最初の著名な作家」っとされてます。
しかし[エドガー]は文筆だけで生計がたっていたとはいえませんねが
「文章に携わって生きていた」とは言えますね。
[エドガー]の人生を軽くですが調べてた感想ですが
「文章以外、ダメ人間!!」でした。
学校関係も、「退学」の二文字はあったのですが「卒業」の二文字が
見つからなかったですし・・・。
お酒に関してはわざわざ書かなくても良いぐらいです・・・。
職に関してもコロコロと変えてますし、でも言えるのが
色々な人に愛されている人物なのは分かりました。
そうでもしないと仕事の紹介など誰もしてくれませんし
自己出版などの時も「カンパ」などで補う時もありました。
しかし個人的に[エドガー・アラン・ポー]は本当に何も知らなかったです。
情けないことに日本の小説・推理作家である[江戸川 乱歩]と区別が
殆どついてませんでした。
代表作を調べても読んだ事のある物も知っている物も無かったのです。
[江戸川 乱歩]は「怪人二十面相シリーズ」位でしたが・・・。
今度[エドガー・アラン・ポー関係]の映画などは見てみようと思います。
今回は[エドガー・アラン・ポー]の続きです。
『エドガー・A・ペリー・軍隊に入隊』 |
1827年 (18歳) |
|
1827年 (18歳) |
『1827年の7月』 エドガー初めての詩集『タマレーン、その他の詩集』を出版 |
1827年 (18歳) |
『1827年の11月』 エドガーはサウスカロライナ州のムールリ砦に移動し 大砲の弾を準備する特別技術兵に昇進する。 |
1828年 (19歳) |
エドガーはヴァージニア州にあるモンロー要塞に移り、順調に
契約での勤務帰還は5年だったが、エドガーは早期除隊
今までの経歴、本名などを明かしての相談の結果 |
1829年 (20歳) |
電報を受け取ってから直ぐに、リッチモンドに帰ったのだが |
『エドガー・学生に戻る』 |
1829年 (20歳) |
和解したとはいえアラン家に居座るのも気が引けるので
訪ねてみたら非常に貧しい生活をしていたので、滞在なんて |
1829年 (20歳) |
ボルティモアに移り住んだ頃から出版の計画は立てていたが |
1830年 (21歳) |
しかしエドガーが想像していた学生生活ではなかった。 |
1831年 (22歳) |
『1831年1月』 エドガーは意図的に問題を起こし、放校処分になる。 以前よりアランとの関係が悪化し勘当を言い渡せれていたが 最後にアランには退学する事を手紙で伝えた後に問題を 起こした。 |
1831年 (22歳) |
残念ながらこの第三詩集はお世辞にも好評とはいえない |
次回[エドガー・アラン・ポー3]へ続く
[エドガー・アラン・ポー]について調べてみたいです。
エドガー・アラン・ポー
(Edgar Allan Poe)
|
生年月日 |
1809年1月19日 - 1849年10月7日 |
出身地 |
マサチューセッツ州 ボストン |
アメリカ合衆国の小説家、詩人、雑誌編集者 |
『エドガー誕生』 |
1809年 (誕生) |
マサチューセッツ州ボストン市、俳優をしている両親 デイヴィッドとエリザベスの間に、次男として生を受ける。 「エドガー」という名は両親が1809年に公演した [シェイクスピア]の『リア王』から取ったとされる。 |
1810年(1歳) |
エドガーが1歳の時に、父親のデイヴィッドは突然家族を 捨てて失踪。 その時、母親のエリザベスは長女ロザリーを身ごもっていた。 そのため出産の前後は貧困生活に、産後の肥立ちも悪い。 |
1811年 (2歳) |
母親のエリザベスは体調不良の中、生活の為に1月に 舞台に復帰。 同年の12月に結核を患い亡くなってしまう。 |
母親の死によって完全に両親がいなくなってしまったエドガー
エドガーが引き取られたアラン家はかなり成功した商人の家庭で そしてここであの有名な名前 「エドガー・アラン・ポー」
が、完成したのです。 |
『エドガー・渡英する』 |
1815年 (6歳) |
前年の米英戦争終結を期に、アラン家は事業拡大のため イギリスへエドガーは短期間ではあるが英国の伝統的な 教育機関である文法学校グラマー‐スクールへ通っていた。 |
1816年 (7歳) |
エドガーはアラン一家と共にロンドンへ移り住む。
しかし養母フランセスが病を患い、転地療養で |
1817年 (8歳) |
ロンドンの郊外にあるマナー・ハウス学校で 寄宿舎生活をする。 ここでの学園生活が後の「ウィリアム・ウィルソン」で 活かされる事になる。 |
1820年 (11歳) |
アラン家の事業拡大は失敗に終わりアメリカの リッチモンドに戻る事になる。 リッチモンドに戻りエドガーはアイルランド人が経営する 学校に通う。 エドガーはここで語学(外国語・古典文学)などを学び優秀な 成績を収める。 一方、アラン家の業績が悪化の一途をたどる。 |
1825年 (16歳) |
アラン家崩壊、商会を解散し自宅も売却する。 その遺産でリッチモンドに豪華な2階建ての家を購入する。 |
『転がる・エドガー』 |
1826年 (17歳) |
新設されたばかりのヴァージニア大学に入学する。
この頃、エドガーは1人の女性と恋をしていた。
しかしサラの父親は、エドガーとの交際を認めずに
さらにエドガーの不幸が加速する。
楽して稼げるわけもなく惨敗していく。
結果、エドガーは自分の力ではどうにもできない金額の |
1827年 (18歳) |
1827年の3月、借金のためヴァージニア大学を辞め、 アラン家も家出同然でボストンへ向かう。 ボストンでは偽名「アンリ・ル・ランネ」と名乗り、色々な アルバイトで日銭を稼いで生活していた。 |
次回[エドガー・アラン・ポー2]へ続く