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2025 .07.05
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今回は[エドガー・アラン・ポーその2]の続きです。
 

『エドガー・文章と共に』

ウェスト・ポイント陸軍士官学校を退学後、ボルティモア移り住み
クレム叔母の家に居候をしながら生活し、文章で身を立てるべく
本格的な活動を始める。


主に雑誌の編集や、雑誌への小説の掲載をしていた。
雑誌の編集の仕事では、才能を発揮し発行数を増やしている。


しかし功績に見合う報酬は貰っていないらしく
職を転々とすることになる。


執筆面でも雑誌に投稿し最優秀作に選ばれ賞金を得たりしている。


だが基本的には貧困生活をしている。
経歴だけみると生活が安定してもおかしくないと思うのですが・・・。 



『主な出来事』
1831年(22歳)
1831年8月

実兄のウィリアム=ヘンリー 結核で死去
 
1833年
(24歳)

1833年9月

郡裁判所から結婚許可を受け13歳の少女
ヴァージニアと結婚する。
 

1836年
(27歳)

1836年5月

仕事が起動に乗っり、ヴァージニアと結婚式を
挙げたる。
 
1842年
(33歳)

1842年1月

妻ヴァージニアが自宅で喀血する。
結核の兆候だった。
 
1846年
(37歳)

ニューヨーク・ブロンクス区にある木造家屋に転居。

1847年
(38歳)
 

1847年1月

妻ヴァージニア死去
 
1849年
(40歳)

エドガーは仕事でリッチモンドへ、ヴァージニア大学の学生時代の恋人だった
エルマイラ・ロイスターと再会する。彼女は未亡人になっていて
度重なる求婚の末婚約する。
 


『エドガーの死』
1849年
(40歳)

1849年9月27日

エドガーは新たな本の出版の準備の為に
船でニューヨークへ向かう。
しかしボルティモアに到着すると、数日滞在することになる。


この時期はちょうどメリーランド州議会選挙のまっただ中で、
10月3日が投票日になっていた。

エドガーはその10月3日にワシントン・カレッジ病院に担ぎ込き
こまれる事になる。


その日、酒場で異常な泥酔状態に陥っていたところを、
友人に発見されて
そのまま病院へ、との流れになった。


10月中にエルマイラ・ロイスターとの結婚式を控えている中
エドガーは4日間の危篤状態が続き1849年10月7日早朝5時に
帰らぬ人になる。


後にエドガーの遺体はメリーランド州ボルティモアの墓地に
埋葬される。



             『エドガーの死因』

時代が時代なので、エドガーの死亡証明書を含め、ポーの診断書は
存在していない。

新聞などでの死因は「脳溢血」や「脳炎」と報道されていた。

発見された時は、泥酔状態でしかも本人の服ではなく
他人の服を着ていたみたいなのです。


そしてちょうどこの時期は選挙が行われていた。


この時代は有権者の身元確認が不十分だった為、不正が良く
行われていた。

その一つが、票を稼ぐために、ターゲット(旅行者や乞食など)を見つけ
無理やり酒を飲まし泥酔させて投票所に連れて行き、投票させる。
というものが流行っていたらしいのです。

エドガーもこれの犠牲になってしまった説が有力です。

もちろん「怖い人」達が行っていたと思われるので逆らえません。 



今回の[エドガー・アラン・ポー]は名前だけ知っていて
殆どの事が知らないことでした。
 

どうも[エドガー]は「アメリカ合衆国において文筆だけで身を立てようとした
最初の著名な作家」っとされてます。
 

しかし[エドガー]は文筆だけで生計がたっていたとはいえませんねが
文章に携わって生きていた」とは言えますね。
 

[エドガー]の人生を軽くですが調べてた感想ですが


文章以外、ダメ人間!!」でした。


学校関係も、「退学」の二文字はあったのですが「卒業」の二文字が
見つからなかったですし・・・。
お酒に関してはわざわざ書かなくても良いぐらいです・・・。


職に関してもコロコロと変えてますし、でも言えるのが
色々な人に愛されている人物なのは分かりました。


そうでもしないと仕事の紹介など誰もしてくれませんし
自己出版などの時も「カンパ」などで補う時もありました。


しかし個人的に[エドガー・アラン・ポー]は本当に何も知らなかったです。


情けないことに日本の小説・推理作家である[江戸川 乱歩]と区別が
殆どついてませんでした。


代表作を調べても読んだ事のある物も知っている物も無かったのです。
[江戸川 乱歩]は「怪人二十面相シリーズ」位でしたが・・・。


今度[エドガー・アラン・ポー関係]の映画などは見てみようと思います。




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今回は[エドガー・アラン・ポー]の続きです。
 

『エドガー・A・ペリー・軍隊に入隊』
1827年
(18歳)
 


1827年の5月

今度は「エドガー・A・ペリー」と名乗り、年齢も22歳と偽り
アメリカ合衆国陸軍に入隊し、ボストン港内の砦に赴任する。
この時期に自分の詩集を出版するため、印刷業者などを探す。 

1827年
(18歳)
 

1827年の7月

エドガー初めての詩集『タマレーン、その他の詩集』を出版 
1827年
(18歳)
 

1827年の11月

エドガーはサウスカロライナ州のムールリ砦に移動し
大砲の弾を準備する特別技術兵に昇進する。 
1828年
(19歳)
 

エドガーはヴァージニア州にあるモンロー要塞に移り、順調に
昇進していき下仕官での最高階級の特務曹長に昇進する。

契約での勤務帰還は5年だったが、エドガーは早期除隊
するために指揮官のハワード中尉に相談する。

今までの経歴、本名などを明かしての相談の結果
ハワードは義理の父親であるアランに連絡を取るよう指示する。
しかし、家出同然で出てきて音信不通を数年していたため
アランからの返事は無かった。 

1829年
(20歳)
 


1829年2月28日

連絡の無かったアランから電報が届く。
内容は義母であるフランセスの様態が悪化したとの事だった。

電報を受け取ってから直ぐに、リッチモンドに帰ったのだが
時はすでに遅く、フランセスは亡くなっていた。

しかし直ぐに駆けつけようというエドガーの姿勢をみた
アランはエドガーを少し許し、除隊を許す。

そしてエドガーの希望のウェスト・ポイント陸軍士官学校に
入学することを許可する。 


 

『エドガー・学生に戻る』
1829年
(20歳)
 


1829年の4月

エドガーは軍隊を無事に除隊した。
そしてウェスト・ポイント陸軍士官学校に入学に関しては
今年度の定員に達していたので入学は翌年の7月まで
待つ事になった。

和解したとはいえアラン家に居座るのも気が引けるので
兄のヘンリーが引き取られた父方の実家を訪れる事にした。

訪ねてみたら非常に貧しい生活をしていたので、滞在なんて
頼める状態ではなかったので諦め、ボルティモアに安いアパートを探して住む事にした。 

1829年
(20歳)
 


1829年12月

ハッチ・アンド・ダニング社から第二詩集
アル・アーラーフ、タマレーン、および小詩集』を出版する。

ボルティモアに移り住んだ頃から出版の計画は立てていたが
金銭的に企画倒れになっていた。

その後、長詩「アル・アーラーフ」が色々な雑誌に掲載されて
世間の注目を集めて、今回の出版になった。 

1830年
(21歳)
 


1830年7月

無事にエドガーはウェスト・ポイント陸軍士官学校に
入学する事ができる。

しかしエドガーが想像していた学生生活ではなかった。
(詩も小説などのエドガーが楽しみにしている事が禁止) 

1831年
(22歳)
 

1831年1月

エドガーは意図的に問題を起こし、放校処分になる。

以前よりアランとの関係が悪化し勘当を言い渡せれていたが
最後にアランには退学する事を手紙で伝えた後に問題を
起こした。 
1831年
(22歳)


1831年2月

ウェスト・ポイント陸軍士官学校を退学し
ニューヨークにある格安のホテルに滞在した。
この期間に第三詩集の出版の計画に入る。
金銭的には士官学校の生徒達のカンパで行った。

残念ながらこの第三詩集はお世辞にも好評とはいえない
評価だった。 



次回[エドガー・アラン・ポー3]へ続く



今回は文学界に多大な影響を与えた人物
[エドガー・アラン・ポー]について調べてみたいです。


エドガー・アラン・ポー
(Edgar Allan Poe)

生年月日 

1809年1月19日 - 1849年10月7日 

出身地 

マサチューセッツ州 ボストン 

アメリカ合衆国の小説家、詩人、雑誌編集者  


『エドガー誕生』
1809年
 (誕生)
 
マサチューセッツ州ボストン市、俳優をしている両親
デイヴィッドとエリザベスの間に、次男として生を受ける。

「エドガー」という名は両親が1809年に公演した
[シェイクスピア]の『リア王』から取ったとされる。
1810年(1歳) エドガーが1歳の時に、父親のデイヴィッドは突然家族を
捨てて失踪。

その時、母親のエリザベスは長女ロザリーを身ごもっていた。
そのため出産の前後は貧困生活に、産後の肥立ちも悪い。
 
1811年
 (2歳)

母親のエリザベスは体調不良の中、生活の為に1月に
舞台に復帰。

同年の12月に結核を患い亡くなってしまう。 
 

母親の死によって完全に両親がいなくなってしまったエドガー
兄弟の長男であるウィリアムは父方の実家に引き取られ。

エドガーは両親の友人のアラン家へ、妹のロザリーはアランの
友人のへそれぞれ引き取られる事になる。

エドガーが引き取られたアラン家はかなり成功した商人の家庭で
織物・小麦・墓石・煙草・奴隷などの幅広く商品を扱う輸入業を
営んでいた。

そしてここであの有名な名前

「エドガー・アラン・ポー」

が、完成したのです。
どうも名は貰ったのですが、正式な養子の手続きはしてないみたいです。

 



『エドガー・渡英する』
1815年
(6歳)
前年の米英戦争終結を期に、アラン家は事業拡大のため
イギリスへエドガーは短期間ではあるが英国の伝統的な
教育機関である文法学校グラマー‐スクールへ通っていた。 
1816年
 (7歳)

エドガーはアラン一家と共にロンドンへ移り住む。
その時、寄宿舎生活を経験する。

しかし養母フランセスが病を患い、転地療養で
各地を移動する事になりエドガーも同行することになる。 

1817年
(8歳)
ロンドンの郊外にあるマナー・ハウス学校で
寄宿舎生活をする。

ここでの学園生活が後の「ウィリアム・ウィルソン」で
活かされる事になる。
 
1820年
 (11歳)
アラン家の事業拡大は失敗に終わりアメリカの
リッチモンドに戻る事になる。

リッチモンドに戻りエドガーはアイルランド人が経営する
学校に通う。

エドガーはここで語学(外国語・古典文学)などを学び優秀な
成績を収める。

一方、アラン家の業績が悪化の一途をたどる。
 
1825年
 (16歳)
 

アラン家崩壊、商会を解散し自宅も売却する。

しかし同時期にアランの叔父で富豪だった
ウィリアム・ゴールドが亡くなりアラン家に莫大な遺産が
転がりこむ。

その遺産でリッチモンドに豪華な2階建ての家を購入する。 



『転がる・エドガー』
1826年
(17歳)
 

新設されたばかりのヴァージニア大学に入学する。
エドガーは自主的活動を重んじる大学で学生寮で
生活しながら語学(外国語・古典文学)を熱心に学ぶ。

この頃、エドガーは1人の女性と恋をしていた。
彼女の名前は「サラ・エルマイラ・ロイスター」

しかしサラの父親は、エドガーとの交際を認めずに
サラを富豪の息子へと嫁にだしてしまう。

さらにエドガーの不幸が加速する。
義父のアランからの送金が送れ、金銭的に生活が
苦しくなる。

そして手を出してしまう「トランプ賭博」だった。

楽して稼げるわけもなく惨敗していく。
アランからの生活費の送金が届いても、トランプ・・・。

結果、エドガーは自分の力ではどうにもできない金額の
借金を作ってしまう。
事情をしったアランは賭博の負け以外の借金は
返済してくれた。 

1827年
(18歳)
 
1827年の3月、借金のためヴァージニア大学を辞め、
アラン家も家出同然でボストンへ向かう。

ボストンでは偽名「アンリ・ル・ランネ」と名乗り、色々な
アルバイトで日銭を稼いで生活していた。
 



次回[エドガー・アラン・ポー2]へ続く


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