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今回はドリトル先生」について調べてみます。
子供の時に読んでいた児童文学作品。
『ヒュー・ジョン・ロフティング(Hugh John Lofting)』 |
1886年1月14日-1947年9月26日 |
イギリス出身の児童文学及び絵本作家。 |
第1巻 | 『ドリトル先生アフリカゆき』 | |
英名 | 『The Story of Doctor Dolittle』 | |
発行年 (発行元) |
アメリカ イギリス 日本 |
1920年(F・A・ストークス) 1922年(ジョナサン・ケープ) 1941年(白林少年館) |
第2巻 | 『ドリトル先生航海記』 | |
英名 | 『The Voyages of Doctor Dolittle』 | |
発行年 (発行元) |
アメリカ イギリス 日本 |
1922年(F・A・ストークス) 1923年(ジョナサン・ケープ) 1952年(講談社) |
第3巻 | 『ドリトル先生の郵便局』 | |
英名 | 『Doctor Dolittle's Post Office』 | |
発行年 (発行元) |
アメリカ イギリス 日本 |
1923年(F・A・ストークス) 1924年(ジョナサン・ケープ) 1952年(岩波書店) |
第4巻 | 『ドリトル先生のサーカス』 | |
英名 | 『Doctor Dolittle's Circus』 | |
発行年 (発行元) |
アメリカ イギリス 日本 |
1924年(F・A・ストークス) 1925年(ジョナサン・ケープ) 1952年(岩波書店) |
第5巻 | 『ドリトル先生の動物園』 | |
英名 | 『Doctor Dolittle's Zoo』 | |
発行年 (発行元) |
アメリカ イギリス 日本 |
1925年(F・A・ストークス) 1926年(ジョナサン・ケープ) 1961年(岩波書店) |
第6巻 | 『ドリトル先生のキャラバン』 | |
英名 | 『Doctor Dolittle's Caravan』 | |
発行年 (発行元) |
アメリカ イギリス 日本 |
1926年(F・A・ストークス) 1927年(ジョナサン・ケープ) 1953年(岩波書店) |
第7巻 | 『ドリトル先生と月からの使い』 | |
英名 | 『Doctor Dolittle's Garden』 | |
発行年 (発行元) |
アメリカ イギリス 日本 |
1927年(F・A・ストークス) 1928年(ジョナサン・ケープ) 1962年(岩波書店) |
第8巻 | 『ドリトル先生月へゆく』 | |
英名 | 『Doctor Dolittle in the Moon』 | |
発行年 (発行元) |
アメリカ イギリス 日本 |
1928年(F・A・ストークス) 1929年(ジョナサン・ケープ) 1955年(岩波書店) |
第9巻 | 『ドリトル先生月から帰る』 | |
英名 | 『Doctor Dolittle's Return』 | |
発行年 (発行元) |
アメリカ イギリス 日本 |
1933年(F・A・ストークス) 1933年(ジョナサン・ケープ) 1962年(岩波書店) |
第10巻 | 『ドリトル先生と秘密の湖』 | |
英名 | 『Doctor Dolittle and the Secret Lake』 | |
発行年 (発行元) |
アメリカ イギリス 日本 |
1948年(J・B・リッピンコット) 1949年(ジョナサン・ケープ) 1961年(岩波書店) |
第11巻 | 『ドリトル先生と緑のカナリア』 | |
英名 | 『Doctor Dolittle and the Secret Lake』 | |
発行年 (発行元) |
アメリカ イギリス 日本 |
1950年(J・B・リッピンコット) 1951年(ジョナサン・ケープ) 1961年(岩波書店) |
第12巻 | 『ドリトル先生の楽しい家』 | |
英名 | 『Doctor Dolittle's Puddleby Adventures』 | |
発行年 (発行元) |
アメリカ イギリス 日本 |
1952年(J・B・リッピンコット) 1953年(ジョナサン・ケープ) 1962年(岩波書店) |
番外編 | 『ガブガブの本』 | |
英名 | 『Gub-Gub's Book, An Encyclopaedia of Food』 | |
発行年 (発行元) |
アメリカ イギリス 日本 |
1932年(F・A・ストークス) 1932年(ジョナサン・ケープ) 2002年(国書刊行会) |
『ドリトル先生の映像作品』
『ドリトル先生アフリカ行き』 | |
制作 | 1928年 ドイツ |
「ドリトル先生アフリカ行き」をエピソードの中から3編を抜粋した モノクロ・無声のアニメーション映画。 |
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第1編:ドリトル先生アフリカ行き(12分) |
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第2編:ドリトル先生とサルの橋(10分) |
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第3編:ドリトル先生とライオン(11分) |
『ドリトル先生航海記』 | |
制作 | 1970年 アメリカ合衆国 |
海洋冒険ギャグ・ミュージカルアニメ |
『ドリトル先生物語』 | |
制作 | 日本・米国合作 |
「アフリカ行き」「航海記」をベースにした全13話の物語。 |
『The Voyages of Young Doctor Dolittle』 | |
制作 | 2011年 アメリカ合衆国 |
若かれし時のドリトル先生が活躍する3Dアニメ |
『その他の関連映像』
「エディ・マーフィ」が「黒人のドリトル先生」を実写映画化したシリーズがありますが
基本的には「動物と話せる医者」という設定以外はまったくの別物です。
[ドクター・ドリトル][ドクター・ドリトル2]の二つが
「エディ・マーフィ」が演じる「ドリトル先生」が活躍する物語です。
[ドクター・ドリトル3][ドクター・ドリトル4][ドクター・ドリトル ザ ファイナル]
の三つは「動物と話せる」能力を引き継いだ娘の物語です。
今回は、突然に思い出したのです。
「ドリトル先生のシリーズは何巻まであるのか!?」
調べていってみて始めて知ったのは、アニメ化もしていたのです。
全13話シリーズ物もあり、そして2011年にも制作されていたのです。
そして「エディ・マーフィ」の映画は最初の作品しかみていなかったのですが
何時のまにか5作品にもなるシリーズになっていたのですね!!
気楽に見れる[コメディ映画]なので近いうちに見てみようと思います。
今回は「ケンタッキー・フライドチキン(KFC)」で
何時も笑顔で迎え入れてくれる
「カーネルおじさん」について調べてみたいと思います。
『ハーランド・デーヴィッド・サンダース(Harland David Sanders)』 |
(1890年9月9日 - 1980年12月16日) |
国際的な社会奉仕連合団体「ロータリークラブ」のメンバーで 孤児院に毎日お菓子などを提供したり、体の不自由な子供の為に 基金を作ったりと多くの慈善活動をおこなっている。 ンタッキー州議会には地元出身の名士として[カーネル・サンダース] の銅像が飾られている。 そして「フリーメイソン」のメンバーでもあります |
『カーネル・サンダースの歴史』 | |
1890年 |
インディアナ州クラーク郡のヘンリービルに生まれる。 父親は6歳の時に亡くなっていて、母親が一人で兄弟共々育てる。 |
1900年 10歳 |
母親を助けるために農場に働きに出ている。
|
1904年 14歳 |
学校を中退し、農場や電車の車掌などの職業に就く。 |
1906年 16歳 |
年齢を詐称して軍に入隊しキューバ勤務になる。 |
1907年 17歳 |
軍隊を除隊し職を転々とする。この時に就いた職業が40以上もあり 30代の後半にはガソリンスタンドを経営する。 しかし1929年に始まった「大恐慌」の影響で倒産してしまう。 |
1930年 40歳 |
ケンタッキー州のコービン移り住み、国道25号線に面した場所で ガソリンスタンドを経営を始める。 ガソリンスタンドの片隅を改造し、レストランコーナー(6席) 「サンダース・カフェ」を始める。 [サンダース]はガソリンスタンドのオーナー職以外にも 調理とレジ係もしていた。 国道沿いに面していた為、店は繁盛し順調に規模を拡大していった。 |
1935年 45歳 |
ケンタッキー州の知事[ルビー・ラフーン]から 「州の料理への貢献」を評価されて 「ケンタッキー・カーネル」の名誉称号を贈られる。 |
1937年 47歳 |
「サンダース・カフェ」の経営は順調。 モーテルを併設した座席数142のレストランに成長していた。 |
1939年 49歳 |
圧力釜での「オリジナル・レシピ」が確立される。 「サンダース・カフェ」が火災に見舞われる。 |
1941年 51歳 |
新たにコービンに座席数147名のレストランを再建する (以前の場所とは違う!?) 現在の店舗は博物館となっていて アメリカ合衆国国家歴史登録されています。 |
1952年 62歳 |
世界で始めての「フランチャイズ」を始める。 実業家の[ピート・ハーマン]の手によって ユタ州ソルトレイク市に フランチャイズ一号店が開業する。 「ケンタッキー・フライドチキン(KFC)」ブランド名は [ピート・ハーマン]によって提案されたものです。 |
1955年 65歳 |
コービンの町の交通事情が変わり、「サンダース・カフェ」への 客足が遠のく事になる。負債も増えてきてしまいついに 「サンダース・カフェ」を手放す。 借金を返済した結果、手元に殆ど現金が残らなかった。 |
1960年 70歳 |
「サンダース・カフェ」を手放してから 5年間は「フランチャイズ」の普及に努める。 わずか5年で米国とカナダで400店舗を達成する。 |
1963年 73歳 |
「ケンタッキー・フライドチキン(KFC)」600店舗を超える!! |
1964年 74歳 |
「ケンタッキー・フライドチキン(KFC)」の権利を 起業家[ジョン・ブラウン2世] に売却する。 経営の第一線から退いたのですが 「会社の広告塔」して働く事になる。 主な仕事は「オリジナル・レシピ」は守られているかを 確認する為に世界の店舗を見て回る事です。 ちなみに[ジョン・ブラウン2世]は 1979年~1983年までの ケンタッキー州の第55代知事を務めた人物です。 |
1970年 80歳 |
「ケンタッキー・フライドチキン(KFC)」日本に進出!! [サンダース]の日本への訪問は計3回で 「1972年10月、1978年6月、1980年5月」です。 |
1979年 89歳 |
「ケンタッキー・フライドチキン(KFC)」6000店舗達成!! |
1980年 90歳 |
6月に急性白血病を発症 12月16日に逝去 |
今回の驚いたのは「フリーメーソン」のメンバーだったことです。
正直「フリーメーソン」については詳しくは知らないのですが
自分の中の「カーネルおじさん」のイメージと結びつかなかったのです。
若いうちは結構フラフラとしていた印象を受けました。
そして意外と苦労もしているみたいでした。
しかし一番驚いたのが「フランチャイズ」始めた人物だった事です。
今では町をあるけば無数の「フランチャイズ店」があるのに
この事業形態を作ったのが、「カーネルおじさん」だったとは・・・。
少し寂しかったのが結婚などはしていないみたいなのです。
「ケンタッキー・フライドチキン(KFC)」の前に飾ってある
人形は「やさしいおじさん」というイメージですし、写真などをみても
印象は「やさしいおじさん」だったので少し寂しくなりました。
前回からの続きです。
『主な登場物』
『エリオット・ネス(Eliot Ness)』 (1903年4月19日 - 1957年5月16日) |
財務長官[アンドリュー・メロン]の厳命で[アル・カポネ]を摘○するため ○類取締局でチーム「アンタッチャブル(手出し出来ない奴ら)」を組織し [アル・カポネ]を追い詰める。 その後も一味の闇○事業者の○発を続け、最終的に69人を捕えた。 |
『ジャック・"マシンガン"・マクガーン(Jack McGurn)』 (1905年 - 1936年2月13日) |
マシンガンで撃たれても一命を取り留めたことから
容姿端麗の希代のプレイボーイで、金髪美女にはとくに目が無かった。 |
『アル・カポネ 暗黒街の頂点篇』 | |
1925年 |
[ジョニー・トーリオ]引退後、縄張りを譲らり受けるて26歳にして組織のトップに立つ。
26歳で組織のトップに立った[アル・カポネ]の行動が |
1927年 | 買収の結果、実質的に市長ともいえる存在にまでなっていた。 |
1927年 (1928年?) 7月1日 |
部下の[ジャック・マクガーン]に命令して [フランキー・イェール]を○害する。 組織の地位や取引での不正(疑われた)などが理由です。 (彼の葬儀の参列者数は15万人を超えたと言われています。) 実行○は [ジョン・スカリーゼ] [アルバート・アンセルミ] [フレッド・バーグ] |
1928年 |
部下の[ジャック・マクガーン]がラッシュ・ストリートのホテルで [ジョージ・モラン]の手下の[グーゼンバーグ兄弟]に マシンガンで襲われる 丁度、この頃[アル・カポネ]も二度ほど狙われる。 |
1929年 2月14日 |
[ジャック・マクガーン]の進言(復○でもある)により、 以前より対立している[ジョージ・モラン]と 決着をつけるべく暗○を命令する。
通称「聖バレンタインデーの虐○」
そしてこの虐○の罪では一人も○捕されなかった。 |
1929年 5月 |
アトランティック・シティで行われた会合の後、 拳○の不法所持で自作自演で逮○される。
「聖バレンタインデーの虐○」
事件で世間の非難が集中していたので、 ○捕される事で少し緩和させる為です。 (目立ち過ぎていて他のギ○ングなどに 狙われていた説もあります) 刑期は1929年5月17日~1930年3月17日 の10ヶ月間です。 (刑務所内のでの待遇はもちろんVIP待遇) |
1930年 |
本格的な○捕を逃れる為に、寄付(食事の配給)などを行った。 (実際は地元の業者に寄付させただけ) |
1930年 (年末?) |
逮○を逃れるため、[アル・カポネ]はシカゴの サウス・ステート・ストリート935番地の店で 貧しい人たちに1日に3度、無料給食を提供した。 このことは新聞などでも報じられ、 国民が感心した出来事だった。 無料給食を運営するのは1ヶ月に1万ドル経費が掛かる、 とアルは言っていた。 しかし、実際には経費のほとんどは [アル・カポネ]自身が負担したのではなく、 地元のパン屋、生肉業者、コーヒー豆屋などに 寄付させたものだったという。 |
1931年 10月7日 |
[アル・カポネ]脱○裁判が始まる。
[エリオット・ネス]率いる[アンタッチャブル]による 「11年の懲○・罰金8万ドルの有○」が判決を受ける。
|
1931年 10月24日 |
クック郡○務所に収監される。 この刑務所でも職員達を買収してVIP待遇の生活を送る。 |
1932年 5月2日 |
最後の望みだった再審請求は最高裁から退けらる。 |
1932年 5月3日 |
アトランタ○務所へ電車で出発する。
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1932年 8月22日 |
アルカトラズ刑務所に囚○85号として収監される。 風呂場の掃除係として働いた。 |
1936年 |
囚○によるストライキが起きるが、 [アル・カポネ]は参加しなかった。 そのため、他の囚○達に「家族を○す」などの 脅しを受ける。 独房で震えながら毛布を頭からかぶり 泣いてたが原因は神経梅毒の影響だった。 |
1936年 6月23日 |
[ジミー・ルーカス]という囚○に背中から刃○で刺される。 理由は 「ストライキに参加しなかった事」 「金銭的なゆすりを断った事」 の二つです。 この事件のあと[ジミー・ルーカス]は隔離棟へ 半年間収監されて狂人になった。 そして神経梅毒の病状が悪化し、 ロサンゼルス付近の連邦矯正施設に移るり 1年近く過ごす事となる。 |
1939年 10月25日 |
FBI捜査官[D・W・マジー]が面会に訪れる。 病状の悪化のためか、現実と妄想の 区別が付かなくなってきている。 |
1939年 11月16日 |
約8年間の監獄生活が終わりになり釈放される。 収監前の自信に満ち溢れた[アル・カポネ]の姿はどこにも無かった。 |
1940年 (?) |
ボルチモアのユニオン記念病院で 梅毒の治療を4ヶ月間受ける。 治療後は「フロリダのパーム・アイランド」に 住居を構えて新たな生活を始める。 たまにシカゴ(暗黒街)の人間などが訪れてきたりもした。 |
1945年 |
病状がさらに悪化。民間人ではじめて ペニシリンを投与されたが効き目 (進行しすぎで)が無し。 |
1947年 1月25日 |
土曜日、午前7時25分
[暗黒街の帝王アル・カポネ]永眠
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1947年 2月4日 |
葬儀が行われる。 |
今回も色々と知らないことが多かったです。
今までは映画『アンタッチャブル』を観た時の印象ぐらいしか
なかったのです。
一番びっくりしたのが「26歳で暗黒街の帝王」にまで出世していたのです。
26歳って・・・物凄い事です。
そして一番がっかりしたのが「死因が病気、しかも梅毒!!」でした。
彼位の大物だったら「暗○」かと思ったのです。
当時としては大変な病気だったみたで・・・でも寂しい気分になりました。
今回の知識をもって映画『アンタッチャブル』を久しぶりに
見てみたいと思います。