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あの有名な劇作家ことを調べてみたいです。
『ウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare)』 |
(1564年4月23日? - 1616年4月23日) |
『ウィリアム・シェイクスピアの人生』 | |
1564年 4月23日? |
イングランドのストラトフォード・アポン・エイヴォンに生まれる。 父親のジョンは皮手袋商人で成功し市会議員なども 勤めている人物で、かなり裕福な家庭の 八人兄弟の次男として誕生する。
生まれた時は裕福でしたが、父[ジョン]が羊毛の |
1582年 11月29日 (18歳) |
[ウィリアム]18歳 8歳年上の女性[アン・ハサウェイ]と結婚する。
※洗礼式が生まれて三日後の計算で誕生日を書いてます |
1583年 5月23日 (19歳) |
長女「スザンナ」が誕生する。 |
1585年 1月31日 (21歳) |
長男[ハムネット]と・次女[ジュディス]の双子が誕生する。 |
1585年 ↓ 1592年 |
21歳からの7年間は[ウィリアム]の記録は一切無い。 ただ[ウィリアム]が亡くなってから色々な説がでているが 正確な証拠は存在しない。 空白の期間から7年たち「ロンドン」へ |
1592年 (28歳) |
「ロンドン」で演劇界で仕事をしている。 当時の「ロンドン」は「エリザベス朝演劇」の大盛況により 演劇ブームが到来し劇場や劇団が無数に 設立されていた時期です。 そんな中[ウィリアム]は「役者・脚本家」として活動する。 色々な証言、言動からかなりの天狗だっと推測できる。 |
1594年 (30歳) |
「役者・脚本家」兼「共同所有者」になり 劇場グローブ座の「共同株主」にもなる。 |
1596年 (32歳) |
父親[ジョン]は、以前より紋章を熱望していた。 父親[ジョン]の願いでもある紋章(中流階級)を取得するべく 紋章院へ、再び申請する。 父親[ジョン]の資格は十分、妻の家柄も良い、 そして本人は経済的に成功している。 以下の理由からシェイクスピア家は念願の 紋章を手に入れる事ができた。 |
1596年 8月11日 (32歳) |
長男[ハムネット]が亡くなり葬式が行われる。 |
1596年 (32歳) |
ビショップスゲイトのセント・ヘレン教区へ転居 |
1598年 (34歳) |
グローブ座で初公演され、劇作家・詩人[ベン・ジョンソン]の 「十人十色」では出演者一覧の最上段に [ウィリアム]の名前が記載れている。
(※俳優としても大成功している)
チラシなどに[ウィリアム]に名前を載せる様になる。
(※彼の名前で人が呼べる)
|
1599年 (35歳) |
サザックへ転居した。 |
1603年 (39歳) |
[エリザベス1世]が死去し[ジェームズ1世]が即位する。 劇団名を[ジェームズ1世]が国王一座へと改称させ 自ら庇護者となることを約束する。 |
1604年 (40歳) |
家主の娘の仲人をつとめた。
ロンドンでの成功で[ウィリアム]は色々な不動産や |
1613年 (49歳) |
故郷ストラトフォードへと引退した。 |
1616年 4月23日 (52歳) |
永眠する。 死因は腐りきったニシンから伝染した感染症とされている。 そして「洗礼式」が生まれて三日後の計算が正しいのならば [ウィリアム]は生まれた日と同じ日に亡くなった事になります。 |
生まれ故郷である「ストラトフォード・アポン・エイヴォン」 にある「ホーリー・トリニティ」教会に埋葬された。 |
今回も知らない事だらけでした。
そし現代でも、『ウィリアム・シェイクスピア』 の原作の作品は沢山あります。
まぁ有名どころはなんといっても『ロミオとジュリェット』でしょうね!!
少し調べてみるだけで文庫本も沢山売ってますし、もちろん原作者が
『ウィリアム・シェイクスピア』になってます。
何百年も前の人が書いたものが今も販売されているのは何か不思議です。
そして時代を現代に置き換えた映画
『コリオレイナス』や『ロミオ+ジュリエット』もあります。
彼の作品だけではなく『ウィリアム・シェイクスピア』個人を主人公にした
映画『恋におちたシェイクスピア』なんてのもあります。
作品の一覧をみていると、題名だけは知っているものが多いのです。
ただ、題名だけを使ったものですけどね。
少し調べて詳しくなったので何作か映画を見てみたいと思います。
では[三銃士]の作者「アレクサンドル・デュマ」の続きです。
『劇作家~小説家』 |
劇作家としての成功から新たな分野を開拓し始める。 当時、新聞各誌は連続小説を連載するようになった時期で これに目をつけ歴史小説を元歴史教師※オーギュスト・マケと書き始めたのです。 (※オーギュスト・マケは非常にフランス史に造詣が深い人物) |
『小説』 | |
1838年 |
『ポーリーヌ』 (Pauline) |
1843年 |
『ジョルジュ』 (Georges) |
1844年 |
『ラインの古城』 (Le chateau d′Eppstein) |
1844年 |
『コルシカの兄弟』 (Les Freres Corse) |
1845年 |
『王妃マルゴ』 (La Reine Margot) |
1845年 1846年 |
『モンテ・クリスト伯(巌窟王)』 (Le Comte de Monte-Cristo) |
1845年 1846年 |
『赤い館の騎士』 (Le Chevalier de Maison-Rouge) |
1846年 |
『モンソローの奥方』 (La Dame de Monsoreau) |
1848年 |
『四十五人』 (Les Quarante-Cinq) |
1850年 |
『黒いチューリップ』 (La Tulipe Noire) |
『ダルタニャン物語』 | |
1844年 |
『三銃士』 (Les Trois Mousquetaires) |
1845年 |
『二十年後』 (Vingt ans Apres) |
1850年 |
『ブラジュロンヌ子爵(鉄仮面)』 (Le Vicomte de Bragelonne, ou Dix ans plus tard) |
『ある医師の回想』 (Memoires d'un Medecin) |
|
1846年 1848年 |
『ジョゼフ・バルサモ』 (Joseph Balsamo) |
1849年 1850年 |
『王妃の首飾り』 (Le Collier de la Reine) |
1851年 |
『アンジュ・ピトゥ』 (Ange Pitou) |
1853年 |
『シャルニー伯爵夫人』 (La Comtesse de Charny) |
連載作品がどれもベストセラーになり
毎夜毎夜の酒宴、豪邸「モンテ=クリスト城」を建築と |
|
1847年 (49歳) |
王族のモンパンシエ公爵の庇護の下「歴史劇場」を建設する。 自分の作品を劇として上演し劇場運営でも大成功を収める。 |
『成功~晩年』 | |
1848年 (50歳) |
二月革命によってモンパンシエ公爵の庇護を失い 市民は革命後の混乱で劇場に足を運ぶ余裕がなくなり 劇場の経営は赤字の一途をたどる。 長年の派手な生活で貯金も使い果たす。 |
1851年 (52歳) |
裁判所からの破産宣告を受ける。 |
その後 |
一時ベルギーに逃亡する。 しばらくして債権者と折り合いをつけて フランスへ帰国することができた。 帰国後、新たなビジネスとして新聞を発行する。 そこで自分の作品を掲載するが、 以前の様な人気がでずにすぐに廃刊することになる。 |
1970年 (72歳) |
家族に見守られて亡くなる。 あれほどあった巨万の富は殆ど使い果たし 財産といえる物は僅かしかなかった。 |
なんとなくですが[三銃士]の作者って誰!?
という疑問から調べはじめました。
しかし一番驚いたのが、[三銃士]の作者と「モンテ・クリスト伯」の作者が
一緒だったという事です。
もちろんどちらも有名な作品なので、勝手に違う人が書いた作品だと
思い込んでいたのですね。
そして作者の成り上がり人間の典型的な行動が思わず笑ってしまいました。
『アレクサンドル・デュマ(Alexandre Dumas)』 |
(1802年7月24日 - 1870年12月5日) |
フランスの小説家・劇作家 |
別名 大デュマ(Dumas, pere) 父親や息子が同名なので別名がついた。 |
『出生~劇作家』 | |
1802年 7月24日 |
父「トマ=アレクサンドル・デュマ将軍」 母「マリー=ルイーズ=エリザベート・ラブーレ」 北フランスエーヌ県ヴィレール・コトレに生まれる。 |
1806年 2月26日 (4歳) |
父「トマ=アレクサンドル・デュマ」が死去。 ナポレオンが父の死後、遺族に終身年金を給付しなかったため、 貧しい生活が始まる |
1817年 (15歳) |
公証人役場で見習いとして働きはじめる。 |
1819年 (17歳) |
シェイクスピア作の悲劇『ハムレット』を見て、 劇作家の道を目指す事になる。 |
1822年 (20歳) |
パリに上京し、オルレアン公爵(後のフランス国王、ルイ・フィリップ)家 の秘書として働きはじめる。 この時から本格的に歴史や文学の勉強を始める。 |
1824年 7月27日 (22歳) |
縫製工の母マリー・カテリーヌ・バベとの間に アレクサンドル・デュマ・フィス(Alexandre Dumas fils) 「通称小デュマ」誕生」 |
1829年 (27歳) |
戯曲『アンリ三世とその宮廷』が大成功すし 続いて歴史劇『クリスティーヌ』 現代劇『アントニー』などの新作も成功し 有名売れっ子劇作家になる。 |
『戯曲』 | |
1825年 |
『狩猟と恋愛』 (La chasse et l'amour) |
1826年 |
『婚礼と葬式』 (La noce et l'enterrement) |
1829年 |
『アンリ三世とその宮廷』 (Henri III et sa cour) |
1830年 |
『クリスティーヌ』 (Christine) |
1831年 |
『アントニー』 (Antony) |
1831年 |
『シャルル七世とその重臣たち』 (Charles VII chez ses grands vassaux) |
1832年 |
『ネールの塔』 (La tour de Nesle) |
次回[アレクサンドル・デュマ2]に続く