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今回は[アルカ・ポネ]について調べてみたいと思います。
アルフォンス・ガブリエル・カポネ(Alphonse Gabriel Capone) 1899年1月17日 - 1947年1月25日 |
カポネ家 イタリア・ナポリからアメリカ・ニューヨークに移民してきた家族。七男二女の四男 |
禁○法時代(1919年~1933)に シカゴで高級ホテルを住まい兼事務所して 密造○製造・販売・○春業・賭○業で巨万の富を得る。
顔に傷があったことで「スカーフェイス(向こう傷)」しかし本人はきにいってなかった |
『主な登場人物』
『ジョン・トーリオ(John Torrio)』
(1882年2月 - 1957年4月16日)イタリア系シカゴのギ○ングスター
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シカゴ・アウトフィット(The Chicago Outfit)のボス
10代の頃は八百長で財を築く
煙草も酒も賭博もやらず8歳年下の妻を非常に大事にしていた。 |
『フランキー・イェール(Frankie Yale)』 (1893年1月22日 - 1928年7月1日)イタリア系ニューヨークのギ○ング |
ブラック・ハンド(○迫を得意とするイタリア系○○組織の総称)のボス
金持ちから奪うい、貧しい者に分け与えるを心情にしていたので
シチリア人達の友愛組織をシチリア同盟として纏め上げた人物で 彼も[アル・カポネ]の暗黒街での育ての親的な存在。 |
『ジェームズ・コロシモ(James Colosimo)』 (1878年2月16日 - 1920年5月11日)イタリア系シカゴのギ○ングスター |
無類のダイヤモンド好きで、全ての指にダイヤの指輪を付けていたぐらいで
少年時代は靴磨きや新聞売りなどで生活していた。
大型の○春宿を経営していた[ヴィクトリア・モレスコ]と財産目当てで結婚する。 |
『ダイオン・オバニオン(Dion O'Banion)』 (1892年7月8日 - 1924年11月10日)アイルランド系シカゴのギ○ングスター |
冷酷で○暴(25人~63人を自分の手で○害している)な一面があるが
酒の密○で富を得ている。
慈善行為に積極的で寄付を惜しまなかった。 |
『ジョージ・モラン(George Moran) 』 (1891年8月21日 - 1957年2月25日)アメリカ系?シカゴのギ○ングスター |
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ダイオン・オバニオン]の組織を継いだ[ハイミー・ヴァイス]の副官 [アル・カポネ]の組織を執拗に付け狙う。 |
『ジェンナ兄弟(Genna Brothers)』 イタリア系シカゴのギ○ングスター |
アンジェロ(Angelo)アントニオ(Antonio)マイク(Mike)
禁○法時代に政府から工業用アルコールを生産する許可を得ていて、裏では密○酒を作り出す。
警察関係の○収も精力的に行い、ピーク時には400人以上に賄○をしていた。 事業の拡大で[ダイオン・オバニオン]の縄張りで商売をし始めて対立する。 |
『アル・カポネ 駆け出し篇』 | |
1899年 1月17日 |
ニューヨークのブルックリンにイタリアの ナポリから来たイタリア系アメリカ人の家の4男として生まれる。 |
1911年 (1912年) |
少年時代のアルは6年生まで成績も良かったが その後は、学校をサボるようになる。 ビリヤードの名手で、「アドニス社交クラブ」という 不良の溜まり場に出入する様になる。 この時期にイタリアン・マフィアの幹部[ジョニー・トーリオ]とも出会う。 |
1912年~ |
[ジョニー・トーリオ]の紹介で[フランキー・イェール]と出会う。 彼の店「ハーヴァード・イン」でバーテンダー兼用心棒として 働き暗黒街の仕事の基礎を学んでいく。 当時、[フランキー・イェール]に借金をしていた男 [トニー・ペロッタ]の所に取り立てに行くと [トニー・ペロッタ]の抵抗に手に負えなくなり排除した。 この事件により「難しい仕事(○人)」をこなせる人物として 認識されて[フランキー・イェール]に気に入られる様になる。 |
1918年 12月4日 |
[メアリー・ジョゼフィン・カフリン]との間に [アルバート・フランシス・カポネ](通称ソニー)が誕生。 |
1918年 12月30日 |
ニューヨーク市ブルックリンの セント・メアリー・スター・オブ・ザ・シー教会 で[メアリー・ジョゼフィン・カフリン]と結婚式を行った。 |
1919年~ |
結婚してから暗黒街での仕事を辞めて、 建設会社に簿記係として就職する。 しかし父[カブリエーレ・カポネ]の亡くなった頃から 暗黒街での付き合いが再開し始める。 |
1920年
?
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競争熾烈なブルックリンの街に見切りをつけた [ジョニー・トーリオ]に呼ばれて「シカゴ」へ行く ホワイト・ハンド(アイルランド系ギ○ング)を痛めつけ [ワイルド・ビル・ロベット]から狙われていた他にも 2件の○人事件に関与し、起訴されそうでもあった 時期だったので呼びかけに応じる。 友人の[ラッキー・ルチアーノ]から2万ドルの 餞別をもらったという。[ルチアーノ]は後年 「カポネのやつ感極まって、今にも泣きそうな顔だったよ」 と語っている。
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1920年
5月11日
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[ジョニー・トーリオ]と酒の秘○で対立の結果 [ジム・コロシモ]は[フランキー・イェール]の手によって暗○される。 [ジョニー・トーリオ]が権力を持つと共に、 [アル・カポネ]も雇われからパートナーに出世し大金稼ぎ 実業家になっていた。 (この時期に、ブルックリンに妻子、母、兄弟達を呼び寄せる) |
1924年 5月 |
[ジョニー・トーリオ]と[アル・カポネ]は[ダイオン・オバニオン] よりシーベンの酒造所を譲渡される。 (持ち株を安く売ってもらったという説もある) しかしこの酒造所は警察の手入れがある事を知っていた [ダイオン・オバニオン]の罠でした。 結果[ジョニー・トーリオ]が○捕される。これを期に [ダイオン・オバニオン暗○]が計画される。 |
1924年 11月10日 |
[ダイオン・オバニオン]は経営する花屋で暗○される。 実行ハンは三名 [ジョニー・トーリオ]が呼び寄せた [フランキー・イェール](イェールではなくマイク・ジェンナ説もあります)
[ジェンナ兄弟]が「シチリア」から呼び寄せた○し屋
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1925年 1月12日 |
[ダイオン・オバニオン]のサツ害後に組織を継いだ [ハイミー・ヴァイス]とその副官[ジョージ・モラン]による [アル・カポネ]暗○計画が実行される。 [アル・カポネ]の車にトミーガンで攻撃したのだが、 [アル・カポネ]は乗っていなくて助かる。 |
1925年 1月24日 |
[ジョニー・トーリオ]は妻との買い物帰りに○撃される。 「胸・首・右手・股間」を撃たれる。 (運が良くとどめの一撃の時に相手の弾が空だった) 回復後、1925年2月9日[ジョニー・トーリオ]は以前の シーベン醸造所事件の手入れ件で 「5千ドルの罰○と9ヶ月の○役」になる。 権力を存分に使って気楽な○務所暮らしをした。 |
1925年 5月 |
[ジェンナ兄弟]のアンジェロも[ジョージ・モラン]の 手によって○害される。 |
ジョニー・トーリオ]は暗殺事件を期に引退を決意する。 [アル・カポネ]に組織を譲り渡す。 条件、10年間利益の25%と[アル・カポネ]の相談役になる事でした。 |
次回[アル・カポネ2]に続きます。
『ヴラド3世(Vlad III) 』 |
1431年 - 1476年 |
通称「ドラキュラ公・串刺し公」
アイルランド人の小説家[ブラム・ストーカー(Bram Stoker)]の作品
「ドラキュラ」に登場する[吸血鬼・ドラキュラ伯爵]のモデル
ルーマニア独立のために戦った英雄
『ヴラド3世の人生』 | |
1431年 (1430年?) |
トランシルヴァニア地方のシギショアラで 『ヴラド2世』の息子(次男)として生まれる。 |
1436年 |
『ヴラド2世』がワラキア公になる オスマン帝国と敵対する。 |
1444年 | オスマン帝国との戦闘が激化 |
『ヴァルナの戦い』 | |
ハンガリー王国 ポーランド王国 ワラキア公国 リトアニア大公国 ローマ教皇連合軍 クロアチア王国 セルビア王国 ボヘミア王国 ボスニア王国 神聖ローマ帝国 |
VS オスマン帝国 |
[オスマン帝国]に敗退
[ワラキア]敗退につき[オスマン帝国]の支配下に入る |
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1447年 |
[ヴラド2世]と兄[ミルチャ]が暗○される (トランシルヴァニア公でハンガリーの有力者 [フニャディ・ヤーノシュ]が暗○を指示という説がある)
[フニャディ・ヤーノシュ]はダネスティ家の |
1451年 |
亡命先の「モルダヴィア」の[アレクサンドル公]が病死 [ヴラド3世]は「トランシルヴァニア」に渡り 以前対立していた[フニャディ・ヤーノシュ]の許へと |
1456年 |
[ヴラディスラフ]はハンガリーの意見を聞かずに 独立しようとしていた。 それを阻止するために[ヴラド3世]を支援し ワラキア公の地位に就かせる。 |
1459年 |
[ヴラド3世]は「ワラキア領内」の貴族達を掌握し 直属の直轄軍を編成し、権力を強める。 その頃から「オスマン帝国」への貢納を拒否する。
「オスマン帝国」側も使者を派遣し貢納を要求するが |
1462年 |
ついに[ヴラド3世]は[メフメト2世]の首をとるべく 夜襲をかける。 激しい戦いの末に[メフメト2世]の首には 手が届かなかったが 「オスマン帝国」に多大の損害をあたえる。
|
1462年 (同年) |
「オスマン帝国」は[ヴラド3世]の 弟[ラドゥ(美男公)]を支援する。 [ヴラド3世]に恨みを持つ貴族達を集めて 襲撃させて追い出す事に成功する。
[ヴラド3世]はトランシルヴァニアに落ち延びるが、 |
1474年 |
[マーチャーシュ1世]の妹と結婚し 正教会からカトリックに改宗し、 12年間の幽閉から釈放される。 (ワラキアの民は正教会中心だったので 人心を失う事になる) |
1476年 (1477年?) |
三度目のワラキア公の地位に就く。 後に「オスマン帝国」との戦闘で戦死する。 (同国の貴族による暗○説もある)
戦死後、[ヴラド3世]の首は塩漬けにされて |
『ヴラド3世の通称』
『串刺し』
[ヴラド3世]が好んで使った処○法が、「串刺し」です。
「串刺し」の刑は、平民(重罪人)にのみ使われていたのです。
この時代の身分の高い(貴族など)が処刑される時は「斬首」が
基本だったのです。
そこで[ヴラド3世]は自分に敵に対しては貴族でも平民でも
関係なく「串刺し」の刑にしたのです。
この行動により、敵対心を折る事ができます。
[メフメト2世]が首都に攻め入ってきた時にも、戦意を奪う程の
「串刺し」刑の山を見せ付けています。
『ドラキュラ』
父親の[ヴラド2世]の通称が「ドラクル(竜公)」だったのです。
竜騎士団に属していたので「ドラクル」と呼ばれていました。
そこで「ドラクルの息子だからドラクレア」で英語読みの
「ドラキュラ」になった。
その他に[ヴラド2世]の通称の「ドラクル(竜)」は
「竜=悪魔」と同一視されていた事と「串刺し」などの残酷な
イメージから「悪魔公」とも呼ばれるようになった。
『ヴラド3世の残酷な伝承』
近隣の貴族を酒宴に招待し、皆殺しに。
「オスマン帝国」の使者を「串刺し」にした。
「オスマン帝国」の使者が帽子を帽子を脱ごうと
しなかったので 帽子ごと使者の頭に釘を打ち付ける。
疫病流行時に、病人たちを一箇所に集め、焼き殺す。
オスマン帝国軍を見せしめに、「串刺し」にした○体を
大量に晒し物にする。
その他にも幽閉時には
「無差別に人を殺して、血肉を食した!!」
「田畑を燃やして農民を苦しめた!!」
とかもあります。
『ヴラド3世は英雄!?』
時代的に「ワラキア」は「オスマン帝国」や他の隣国の
脅威に怯えていました。
その為に、権力を得るために近隣の貴族を皆○しにしたり
「オスマン帝国」からの使者を殺したりし、毅然なる態度を
示したのでしょう。
見せしめの「串刺し」にした死体を晒すというのも
「ワラキアに手を出したらただではすまさない!!」
と言う意味にも感じられるのです。
病人達を焼き殺した時も、「疫病の流行」を止める為です。
「オスマン帝国」の脅威に怯え続けてきた
「ワラキア」の民にとっては
「英雄」
と呼んでもおかしくないと思われます。
今回も知らないことばかりでした。
知っていたのは小説「ドラキュラ」のモデルで
「串刺し公」と呼ばれた残酷な君主!!ぐらいでした。
「オスマン帝国」と戦っていたり
領土を捨てて逃げたりと、思いのほか忙しい人生みたいでした。
ただの残酷な君主だと思っていたので以外でした。
そういえば小説や映画で「ドラキュラ」を見た事がないので
見てみたいと思います。
前回からの続きです。
『ジャンヌの敗戦』
国王の命令で、引き続き従軍をしているジャンヌの
次の目的は「首都であるパリ奪還!!」
シャルル7世の地位は磐石にするためです。
この考えに賛同したのが[ジャン2世・ド・ヴァロワ]などのタカ派(強硬派)
現状の成果に満足している国王側近のハト派(穏健派)
結局は複雑な政治情勢に巻き込まれてジャンヌは孤立し
援護もない戦いに挑まないといけなくなります。
1430年5月23日(コンピエーニュの戦い)
ジャンヌはブルゴーニュ軍に捕えられてしまいます。
そしてイングランド軍に1万リーブルの身代金と
引き替えに身柄が引き渡されしまいます。
1430年12月24日 ルーアンのブーヴルイユ城に監禁される
『ジャンヌを裁判』
1431年2月21日、捕らえたれたジャンヌは異端審問裁判(魔女裁判!?)にかけられる。
裁判長[ジャン・ル・メートル(Jean LeMaitre)]でしたが
実際に取り仕切っていたのはイングランドの息のかかった
[ピエール・コーション(Pierre Cauchon)]でした。
その他にも60名を超える聖職者たちが裁判にたずさわっていました。
この裁判の一番の争点は
「ジャンヌの聞いた声(神託)」
についてでした。
『声(神託)の正体』 | |
ジャンヌの主張 | 教会側 |
聖女カトリーヌ 聖女マルグリット 大天使ミカエル |
森の精霊 悪魔の声 |
結果ジャンヌは悪魔崇拝の異端者であると結論づけられてしまいます。 (普段から男装していたのも異端とされた。) |
『ジャンヌと裁判官の二人』 | |
ジャン・ル・メートル (Jean LeMaitre) |
大審問官ジャン・グラウランが他の異端裁判で出張中だったので
彼は裁判の正当性に疑問を抱いていたらしく 異端審問裁判後はルーアンのドミニコ修道院の修院長を勤めている |
ピエール・コーション (Pierre Cauchon) |
[ランス]出身の聖職者。 ジャンヌ異端審問裁判では代理裁判長つとめる。 イングランド・ブルゴーニュ派(敵対組織)と結びつきが強く ジャンヌの活躍で色々な地位を失ってしまい恨んでいる。 イングランド関係の強い要望が「ジャンヌの火刑!!」 彼の意思も同じ「ジャンヌの火刑!!」 |
『ジャンヌに判決』
5月24日 判決が言い渡された!!
本来、ジャンヌは火刑が言い渡される予定でしたが
判決を読み上げている途中で本人の口から「異端」と認める。
そのため、教会の指示に従い誓約書に署名し改宗する事で火刑は免れ
変わりに永久入牢の刑が科せられた。
しかしこの時に署名した誓約書は
[読み上げた内容と文面の内容が違っていたと言われてます。]
5月28日、牢獄で女性の服装をしていたジャンヌが男性の服装に戻っている事件がおきる。
[異端再犯]
この言葉は救済はない事として、火刑が言い渡される。
『ジャンヌは異端再犯!?』
最初に状況を整理しておきたいです。
「彼女は投獄されています。」
そこで男性の服を手に入れる事ができるのか!?
一番簡単なのが「看守なり外の人間が服を持ってくる」ですね!!
ジャンヌが自分の力で洋服を出した!!とかなら
牢獄なんて何の意味もないですね。
そして投獄されていたのがイングランド軍の牢獄なのです。
答えは簡単だと思います。
[フランスの英雄]=[イングランドの宿敵]ですから
イングランドの目的は「ジャンヌの火刑!!」ですから
ただ単に殺すのではなく、社会的にも抹殺する事を目的としているので
[異端再犯]にしたてあげてたのですね。
あと書かれている話ですが、投獄中に看守などに酷い事をされていたと。
この時代背景ではありえる話で気分が悪くなります。
『ジャンヌの最後』
5月30日、異端者として教会から破門、即時死刑を宣告される。
[ルーアン市内のヴィエ・マルシェ広場で火刑に処される]
刑が実行されるまでは怯えていたのですが
実行されると毅然とし神への信仰を捨てていなかったとされている。
『火刑』 |
この時代のキリスト教徒にとって一番過酷な刑が火刑になります。
火刑とは自分の体が灰になるので、最後の審判の時の復活する体が無くなる事を意味する |
『ジャンヌの名誉回復』
1449年11月10日、フランス軍がイングランド軍を打ち破り
ルーアン城を解放する。
1450年2月15日、国王であるシャルル7世の命令で異端審問裁判の
調査が行われた。
調査の結果を当時のローマ教皇(カリストゥス3世)に提出した事で
異端審問裁判のやり直しが行われた。
1455年11月7日、ジャンヌの母の訴えにより復権裁判が行われた。
復権裁判には[ジャンヌの戦友達][オルレアンの市民達]など
115名のジャンヌの縁のある人々が証人として呼ばれた。
1456年7月7日、ジャンヌの刑が実行された地ルーアンにて
処刑裁判の無効が宣告され
異端者の汚名からジャンヌの名誉が回復する事ができたのです。
『ジャンヌの死後』
1909年4月18日、ピウス10世によってノートルダム大聖堂で
福者(Beatus)の称号を得る。
1920年5月16日、ベネディクトゥス15世によってサン・ピエトロ大聖堂で
聖人(Saint)の称号を得る。
守護対象[フランス]
ジャンヌはフランス全土では知名度はそれほど高くかったみたいです。
もちろん一緒に戦った軍隊や解放した都市の住人には人気があった。
とくに解放した都市のオルレアン市民には人気で
『オルレアンの乙女(la pucelle d'Orleans)』
と呼ばれて市内に家も提供してもらっていた。
ジャンヌが捕らえられた時には身代金を寄付していたといいます。
(この時の寄付金はシャルル7世が没収したみたいです。)
そんなジャンヌがフランス全土で知名度を得るようになるのは
政治的な戦略があったみたいです。
最初にジャンヌの名前を使ったとされるのが
あの有名な[ナポレオン・ボナパルト]みたいです。
聖人になり守護対象が[フランス]となる人物なので
色々な政治家の手によって[愛国主義][国民統合]などの
シンボルにされてきたのです。
もちろん芸術や文学の題材とされる事も多かったのです。
現代においても多くの映画、小説などの題材にされています。
今回も知らない事が多かったですね。
少しはジャンヌについては知ってはいたのです。
映画で見たぐらいだったですが・・・。
ジャンヌのエピソードが少ないので
映画だけでも結構な知識になっていたのです
ただ、それはエピソードだけで
時代背景や、戦友の事などは
調べてみるまでぜんぜん知らなかったのです。
やはりこの時代位の話は残酷な事が多いですね。
戦争は何時でも残酷ですけどね・・・。
今度は戦友の名前や背景を確かめながら
映画を見てみたいです。